――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港167)
大陸反抗を獅子吼し、「我が中華民国こそが正統の中国であり、台湾海峡の向こう側の漢土は非合法団体である『共匪』に騙し取られた。アレは偽中国だ」と声高に叫んで肩肘を張りはしたものの、やはり?介石政権は“後ろめたさ”から逃れることは出来なかった。
「我らこそ『自由中国』だ」などと胸を張ってはみたが、それが絵空事でしかないことを、?介石も承知していただろうに。「自由中国」という空虚な4文字に投影された敗残の身の忸怩たる思いを、禁戯措置を受けた演目が物語っているとは、些か言い過ぎか。
一方の共産党政権だが、建国1年前の1948年11月13日の『人民日報』で伝統演目の改革方針を掲げた。建国直前の1949年7月に開催した第一次全国文学芸術工作者代表大会では、周恩来は演目のみならず、役者、劇団組織を含む興行形態にまで徹底してメスを入れ、演劇界を骨の髄から蝕んできた封建社会の残滓を取り除く方針を打ち出した。魑魅魍魎に蝕まれ、封建社会の因習に骨がらみの芝居の世界を革命するとの狼煙である。
芝居の世界を革命し、革命された芝居によって国民を教化・洗脳しようというのが狙いだろう。役者を「人民の魂の教師」と再規定(煽て上げ?)し、統一戦線工作に従事させる。その一方で芝居の興行に絡んでいた黒社会(ヤクザ)を全面解体し、興行に関わる一切を共産党政権の下に置いた。政治による演芸の一元支配と言うことだ。
いわば役者、興行側、政府当局(警察)が互いの領分を侵さないようにグレーゾーンを保ちながら、「互恵互利」の関係で行われてきた従来の興行システムから興行主側を徹底排除し、政府当局が直接的に興行を取り仕切る形に大変革したのである。たとえていうなら縁日や祭りからテキ屋を排除し、当局が直接的に管理・運営するようなもの。なんとも味気なく息苦しい限りだ。
かくて建国直後の1950年から52年にかけ、共産党政府は「人民を恐怖に陥れ麻痺させる封建道徳と迷信を鼓吹するもの」「淫毒奸殺を煽るもの」「労働人民の言葉と振る舞いを醜悪化させ侮辱するもの」を基準に、従来から演じられてきた演目を厳重審査し、26本を禁戯とした。禁じたと言うことは、とりもなおさず客を呼べる演目だったに違いない。
「淫毒奸殺」の4文字を訳せばエロ・グロ・ホラー・アブノーマル・インモラル・バイオレンスとなろうか。「淫毒奸殺」の非日常の世界が存分に描き出されるからこそ、芝居が人々を芝居小屋に誘う。「淫毒奸殺」が消えた謹厳至極の舞台なんぞクソ面白くもない。だが共産党政権が目指す社会は、飽くまでも“清く明るく正しく美しく”あらねばならないから、当然ながら「淫毒奸殺」は認めるわけにはいかないことになる。
結局、文革開始前の1960年代半ばまでに、30本の京劇が禁戯処分を受けている。
いま、それら禁戯処分を受けた演目を示しておくと、「殺子報」「九更天」「滑油山」「奇冤報」「海慧寺」「双釘記」「深陰山」「大香山」「関公顕聖」「双沙河」「鉄公鶏」「活捉三郎」「大劈棺」「鍾馗」「黄氏女游陰」「活捉南三復」「活捉王魁」「陰魂奇案」「因果美報」「僵屍復仇記」「薛礼征東」「八月十五殺韃子」「小老媽」「引狼入室」「蘭英思兄」「鍾馗送妹」「麻瘋女」「李慧娘」「海瑞上疏」「海瑞罷官」――
文革発動の口実になった「海瑞上疏」「海瑞罷官」を除くと、他は例外なく「淫毒奸殺」がテーマである。だから、注目すべきは「淫毒奸殺」だろう。
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じつは�小平が対外閉鎖から対外開放へと大胆に舵を切った直後の1980年6月6日、中国政府(文化部)は、「非合法劇団や素人一座が禁戯措置を受けている演目を舞台に掛け、大衆に毒素をばら撒き、劣悪な影響を与えている。このような状況に対し、当該地区(の政府)は適当な方式によって上演を取り止めさせ、さらなる悪影響の拡大を防ぐべし」と謳った「関于制止上演“禁戯”的通知」を告知したのであった。《QED》