――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港151)
話の焦点が定まらないことは十分承知しつつも、ここで第六劇場を離れ、『修訂平劇選』をタネに京劇と政治の関係について少し考えてみたい。それというのも、文革の象徴でもあった革命現代京劇に典型的に見られるように、中国社会で京劇(芝居)は娯楽であると同時に民衆を教化(=洗脳)するには極めて効果的な手段だったからである。
だから政治と京劇(芝居)は切り離せないし、演芸全般は政治闘争における重要な手段(武器)であった。その“効用”を知ればこそ、19世紀半ばに清朝を崩壊の瀬戸際にまで追い詰めた太平天国は芝居を使って自らの考えを老百姓(じんみん)に説いた。
このカラクリを最大限に活用したのが毛沢東であったことは夙に知られてはいるが、?介石とて利用しないわけではなかった。文字を知らない圧倒的多数を洗脳するには、この方法が最も理に適っていたわけだ。おそらく費用対効果が高かったに違いない。
そこで『修訂平劇選』が集録する演目を見ておきたい。
第1集:「打漁殺家」「三娘教子」「打嚴嵩」「刺虎」
第2集:「捉放曹」「岳家荘」「宝蓮灯」「奇双会」
第3集:「一棒雪」「南陽関」「桑園寄子」「林冲夜奔」
第4集:「?痕記」「打鼓罵曹」「走雪山」「寧武関」
第5集:「探寒窰」「御碑亭」「定軍山」「玉堂春」
第6集:「?沙痣」「汾河湾」「田単救主」「戦宛城」
第7集:「売馬」「戦太平」「双獅図」「木蘭従軍」
第8集:「空城計」「宇宙鋒」「遊武廟」「喬醋」
第9集:「上天台」「忠孝全」「桑園会」「天水関」
第10集:「鎮?州」「定計化縁」「薦諸葛」「思凡」
第11集:「山亭」「将相和」「文昭関」「?美案」
第12集:「投軍別窰」「徐母罵曹」「哭祖廟」「監酒令」
一見、なんの脈絡もなく並べられているようだが、じつは収録基準――(1)誰もが好み数多く公演されている演目。(2)時宜に適ったストーリー。(3)「社会教育の意義の有無」――があった。この基準に適った演目から「迷信、暴力、残虐行為、社会教育の意義や時代思潮に反する部分が削除」され、晴れて政府公認となり、公演が推奨されたのである。
『修訂平劇選』に収録され演目は、民衆が慣れ親しんだ内容から「迷信、暴力、残虐行為、社会教育の意義や時代思潮に反する部分」を取り去り、?介石政権が求める「社会教育の意義」の役割を担わされたことになる。?介石政権が「是」とする「社会教育の意義」を民衆の頭の中に叩き込もう。この点に修訂作業の狙いがあったはずだ。
じつは『修訂平劇選』の修訂作業は、民国28(1939)年に中華民国教育部教科用書編輯委員会劇本整理組によって始められている。同書の奥付を見ると、初版(「渝初版」)は民国34(1945)年2月に重慶(=渝)で、集成図書公司で購入した台湾での第一版(「台一版」)は民国48(1959)年2月に台湾で出版されている。
これを?介石政権を取り囲む環境の変化に合わせてみるなら、日本軍の攻撃を躱すために同政権が重慶を「戦時首都」に定めて遷都(1937年11月)して2年程が過ぎた頃に修訂作業が始まっている。初版は米軍が硫黄島に上陸し、日本の退勢挽回不能が決定的となった前後に出版された。そして国共内戦に破れた?介石政権が台湾に落ち延びて10年後、いわば「大陸反攻」を断念した?介石が強固な独裁体制を布き、台湾を「自由中国」などと粉飾するようになった前後に改めて台湾版が上梓された――このように?介石政権を取り囲む環境は激変したが、「社会教育の意義」は変わらなかったことになる。《QED》