――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港142)
1984年12月から97年6月30日までの「過渡期」の間に、共産党政権は特別行政区としての“香港のかたち”を定めるため、香港特別行政区基本法起草委員会(1985年6月18日、全国人代常務委員会決定)を皮切りに、基本法諮詢委員会、同委員会執行委員会、港事顧問、特別行政記籌備委員会予備工作委員会組成人員など、数々の機関を新設した。
これら新設機関に名を連ねた香港の名立たる企業家を挙げてみると、安子介、包玉剛、李国宝、李嘉誠、劉皇発、霍英東、田北俊、李福兆、呉光正、スタンレー・ホー、唐翔千、霍英東、曽憲梓、董建華、鄭裕?、霍震霆、羅康瑞、羅徳丞、邵逸夫、胡應湘、徐展堂、黄志祥、梁振英、鐘士元、李兆基、林百欣、郭炳湘、郭鶴年、陳永棋、包陪慶、李澤鉅、唐英年、霍震寰など――越後屋は数知れず。そら恐ろしい限り。これが現実である。
ことに注目すべきは長老格の安子介、霍英東、鐘士元、それに若手では梁振英である。それというのも、これら企業家は複数の委員会で中心メンバーとして動き、オ殿サマの取り巻きと一緒なってオ殿サマの意向を香港基本法の行間に埋め込み、最終的に一国両制を形作ることに貢献したと考えられるからだ。
さらに付け加えるなら、ここのメンバーにタイのCP(正大)集団総帥である謝国民の実兄で同集団の対中部門を統括する謝中民、マレーシアの郭鶴年一族などが加わって「香港明天更好基金会」なる組織を、返還直前に立ちあげている。
当時のオ殿サマである江沢民の呼び掛けに応じ、いやオ殿サマの心情を大いに忖度し、民間の立場から返還を大々的に祝おうというのが設立の趣旨。返還を前に香港の主要街区を華やかに飾り、返還式典を挟んでヴィクトリア湾の上空に華々しく花火を打ち上げ、香港を挙げて祝賀ムードを演出した。かくて香港全体をお祝いムードで覆い尽くし、大多数の住民の反中感情を一時であれ抑え込んでしまう。いや麻痺させたようにも思う。
そういえば一連の返還行事参加のために北京から馳せ参じた江沢民以下の一行が宿舎としたホテルは、九龍の先端に返還に合わせたかのように新設された超豪華ホテル。眺望はバツグンで警備は万全。ホテルからヴィクトリア湾を挟んで指呼の間に返還式典会場の国際会議場が位置する。オーナーが李嘉誠と知れば、どんなボンクラでもオ殿サマのために特別に用意されたホテルと想像できるはずだ。
なぜ、ここまで超破格の接遇を・・・もちろんオ殿サマと越後屋の関係である。後々の“稼ぎ”を考えれば、超豪華ホテルの一棟や二棟など安いものだろう。それもこれも「越後屋、ソチも相当にワルよのう」「滅相もゴザイマセン。とてもとても、オ殿サマには敵いません」「ブハッ、ブハッ、ブハッハハハハ!」のアレなのだ。
であればこそ何度でも言っておきたい。極論するなら、越後屋を抜きにした香港論議は畳の上の水練以下だ。役に立たない。いくら声高に民主を叫ぼうと、それは単なる“口先介入”に過ぎず、オ殿サマにとっても越後屋にとっても実質的には痛くも痒くもない。
たとえば李嘉誠である。北京のオ殿サマと“密談”を交わす一方で、じつは去り行くロンドンのオ殿サマに対してもセッセと、しかもシッカリと政治献金を重ねていたというのだから、これはもう恐れ入谷の鬼子母神である。素人目には盗人に追い銭の類の“捨て金”と思えるが、そこは百戦錬磨の越後屋である。万々一の場合の風険投資(リスク・マネージメント)を忘れるわけがない。やはり保険の掛け方が違う。その証拠に、香港返還後も李嘉誠はイギリスで大きなビジネスをセッセセッセと展開したではないか。
李嘉誠がそうするわけだから、他の越後屋だって我先に真似するのが商法のイロハ。だが、おそらく北京のオ殿サマも、そんなことは先刻ご承知であったに違いない。《QED》