――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港50)
故意か偶然かは議論の分かれるところだろうが、1970年前後を境に香港を取り囲む内外情勢の風向きが変わった。2020年の現在とは大違いの“巨大な北朝鮮”であり“貧困の超大国”でしかなかった毛沢東の中国に向かって、欧米から追い風が吹きはじめたのである。
1969年3月に全面戦争の危機を孕んだ中ソ国境紛争が勃発し、翌4月の中国では毛沢東が「勝利の大会」と宣い、林彪が後継者であることを内外に明らかにした第9回中国共産党大会が開かれた。この大会が皮肉にも林彪失脚と毛沢東の権威の退勢に繋がる。
この年1月に就任したニクソン米大統領がヴェトナムからの米軍撤退を打ち出したことから(1年後に撤退開始)、中国は米軍の北上に怯えることなくソ連への対峙が可能となった。つまり米ソ両国に対する二正面作戦という悪夢を回避できたわけだから、ニクソン大統領によるヴェトナムからの撤退発言は、アメリカが堅持してきた中国敵視政策撤回のサインとなった。古来、敵の敵は味方である。ソ連は米中共同の敵に変じたのである。
ニクソン政権誕生前後から、米中間で関係改善への動きがみられるようになる。中国側からはパキスタンを介してのキッシンジャー国務長官への伝言であり、1971年4月には名古屋の世界卓球選手権に参加していたアメリカ代表団が訪中している。その3か月後、キッシンジャー国務長官が秘密裡に北京を訪れ周恩来と会談し、ニクソン訪中を起点とする米中国交樹立への道筋を模索した。同じ7月、アメリカは中国に対する貿易制裁の取り消すと共に、翌年2月にはニクソン大統領が訪中することを明らかにしている。
キッシンジャーの秘密訪中が報じられて以後、香港では時折、「いまキッシンジャーがマンダリン・ホテルに宿泊中で、これから訪中する」などといった噂が飛び交ったものだ。香港の人々が米中関係の推移に自らの将来を重ね神経を尖らせていたからこそ流れた噂だろう。かくして物見高いはナントやら、である。噂の真偽を確かめるべく、マンダリン・ホテルの周りをヒマに任せてほっつき歩いた。当然のように徒労ではあったものの、いまとなっては有意義なヒマの潰し方だったと自画自賛(?)する次第だ。
1971年10月の国連総会において、アメリカは中国の国連安保理事会常任理事国入りを事実上認めた。1972年2月、予定通り訪中したニクソン大統領が署名した「上海コミュニケ」によって、アメリカにとっても「台湾は中国の一部」となったのである。
その5日後、中国の黄華国連常駐代表は国連において、「香港とマカオはイギリスとポルトガルによって不当に占領された中国領土の一部分であり、帝国主義が中国に強いた不平等条約によって歴史的に残された問題である。香港とマカオに関する問題解決は完全に中国の主権に属するものであり、通常の殖民地の範疇には含まれない。中国政府は条件が整った時にしかるべき方法で問題を解決することを一貫して主張してきた」と、中国の立場を訴えた。中国は香港とマカオを殖民地ではなく、飽くまでも強奪された土地と見做す。
この黄華発言を、イギリスが欠席した国連の殖民地問題に関する委員会が受け入れる。もはやイギリスの欠席理由は明らかだろう。3月13日、英中両国は共同コミュニケを発表し、(1)北京とロンドンにおいて双方が大使館を建設し、(2)互いに主権と領土を尊重することを明らかにしたのである。このようにイギリスが暗黙の裡に香港を殖民地とは見做さなくなったことから、香港の将来は定まったも同然だった。
やはり1967年の香港暴動によって、イギリスは香港の生殺与奪の権は北京に握られていることを思い知らされる一方で、「イギリス病」と呼ばれた長期停滞打開の糸口を対中貿易の可能性に求めたのではなかったか。イギリスによる一連の対応を「身勝手」「香港切り捨て」と批判する声があることは確かではあるが、1971年の「移民法」によって「BNO(英国在外市民)」の旅券を発給することで、香港住民の法的地位を守ったとの声もある。《QED》