――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港102)

【知道中国 2220回】                       二一・四・初八

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港102)

 

『柳文指要』(「第1版」)は、毛沢東との権力闘争に敗れた林彪がソ連逃亡を図り、モンゴルで墜落死したとされる1971年9月に出版されている。偶然だとは思うが、なんとも不思議な巡り合わせだ。

全面戦争一歩手前まで進んだとされる中ソ国境武力衝突(「ダマンスキー島事件」=「珍宝島事件」)の発生が1969年3月で、翌4月に開かれた第9回共産党全国大会を毛沢東は「勝利の大会」と“自画自賛”した。この大会で林彪は毛沢東の後継者として正式に認知されている。その後に伝えられたところを総合すれば、この大会前後から、毛沢東と林彪の間で、共産党最高権力をめぐる暗闘が始まったと見て間違いないだろう。

ここで付言するなら、ニクソンが1969年1月に米大統領に就任したことから、キッシンジャーを軸にニクソン政権による米中接近工作が動き出した。

一般に林彪は米中接近に否定的だったとされるだけに、『柳文指要』は共産党政権最上層で権力と外交方針をめぐる暗闘が激化している過程で準備され、出版されたと考えて強ち間違いはないだろう。

以下、当時の状況を敢えて深読みしてみた。

1969年4月に毛沢東後継に公式に選ばれてから1年4か月が過ぎた1970年8月(あたかもそれは、林彪のモンゴルで“謎の死”の1年ほど前だ)、毛沢東と林彪の間で「天才論」を巡って対立が表面化している。

1970年8月の共産党第9期2中全会と呼ばれる重要会議の席上、林彪は文革を発動した1966年半ばに発表した「20世紀の天才はレーニンと毛沢東」「毛主席のような天才は全世界で数百年に1人、中国では数千年に1人しか現れない」と「天才論」を蒸し返し、毛沢東を徹底してヨイショした。加えて林彪の取り巻き連中は、毛沢東が主唱した国家主席廃止論に反対を表明した。「早く国家主席ポストを林彪に譲れ!」と言うのだろう。

このような動きに激怒した毛沢東は、「重要なのは天才ではなく社会的実践であり、人間の知識や才能は後天的なものだ」と強調したと伝えられる。これ以降、毛沢東(派)と林彪(派)の間の暗闘が激化し、やがて1971年9月のモンゴルにおける林彪の“謎の墜落死”へと繋がっていくわけだ。

『柳文指要』は「出版説明」で、「章士�による柳宗元研究は、弁証唯物主義と歴史唯物主義の視点に立てば必ずしも十分とは言えず、欠陥も見られる。だが、我が国古代の優れた文化遺産を批判的に吸収する観点からは一定の価値がある」としたうえで、章士�が柳宗元の「民を以て主と為す」という思想の正しさを力説する一方で、韓愈の「民を以て仇と為す」という誤りを論駁する点を高く評価する。

じつは「出版説明」は文末を「中華書局一九七一年四月」の日付で結んでいる。

「民を以て主と為す」と「民を以て仇と為す」の間に天才論を巡る毛沢東対林彪の対立を置いた場合、「民を以て主と為す」は毛沢東の考えに近いような気もする。かくして『柳文指要』は天才論批判を狙って出版されたと考えたいのだが、これは妄想だろうか。

「槍杆子(てっぽう)から政権が生まれる」は毛沢東の暴力革命理論としてあまりにも有名だが、じつは彼は「槍杆子」と同じように、いや、時にそれ以上に「筆杆子(ペン)」、つまりメディアによるイメージ戦略を巧妙に使った。

文革当時の中国におけるメディア戦略の大きな柱は、やはり筆杆子だったのだ。であればこそ出版には最高度の政治的判断が反映されていたに違いない。だから毛沢東の意向を無視して、出版メディアの牙城である中華書局で『柳文指要』の出版が許可されるはずがない。『柳文指要』は、当時の政治状況を雄弁に物語っていたように思えるのだが。《QED》


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