――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港99)

【知道中国 2217回】                       二一・四・初一

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港99)

 

たしかに深?河は香港の歴史を象徴している。

1941(昭和16)年12月払暁、日本陸軍は左右両翼と迂回部隊の3方面に分かれ深?河を越えて新界に進攻し、13日に九龍を制圧した。18日には香港島に上陸し、英軍を圧倒した後、28日午後2時に九龍の弥敦道で、3時には香港島湾仔の軒尼詩道(ヘネシー・ロード)で、それぞれ入城式を行ったのだ。

香港の人口は、日本軍が軍政を布いた1941年の164万人から戦争が終わった1945年には65万人にまで激減し、1946年には155万人へと激増している。つまり日本軍が軍政を布いていた3年8か月ほどの間に100万人近くが深?河を越えて大陸へ、戦争終結と共に100万人ほどが深?河を香港側に越えたことになる。

日本敗戦が近づいた頃、香港回収のために林彪が部隊を率い深?河の近くまで進攻していたとの説も聞かれる。多分に「都市伝説」の類だとも思われるが。

それから半世紀ほど後、特別行政区となった香港に進駐するため人民解放軍部隊を乗せた軍用車両が深?河を越えた。篠つく雨の中を、多くの香港住民が五星紅旗を手に「祖国の兵士」を迎えたのである。

香港の友人宅で、人民解放軍の軍用車両が続々と香港入りするシーンのテレビ中継を見ていると、友人の父親が「どこかで見た情景だ。そういえば、あの時、日の丸を手に打ち振りながら日本軍を迎えたなあ」とポツリ。あの呟きがヤケに印象に残っている。あの日の雨を、友人の1人は「雨は水、水はカネの象徴だ。返還当日の雨とは幸先がいい。香港的明天更好(香港の将来はバラ色だ)」と。

ちなみに1997年の返還を前にした「過渡期」に、中国政府に協力し民間の立場で返還作業に積極協力した有力企業家が組織した民間組織の名称が「香港明天更好基金会」だった。

閑話休題。

ここらで香港で実感した文革を、改めて振り返ってみたいと思う。

「文化大革命といえば、中国人は一九六六年から一九七六年までの十年間の大動乱という言い方をするのが普通になっている。しかし、歴史家からは異論が出るかもしれないが、真の意味での文化大革命は、一九六九年四月の党大会で終わったと考えるのが合理的ではないだろうか」とは、長い外交官生活のほぼすべてを中国関係の最前線で送ったパーシー・クラドックの『中国との格闘  あるイギリス外交官の回想』筑摩書房 1997年)の一節である。

「一九六九年四月の党大会」とは、直前の3月には全面戦争一歩手前とまで報じられたソ連との国境における大規模軍事衝突があった第9回共産党全国大会を指す。じつは大会会場で毛沢東は「勝利の大会」を連呼していた。それというのも、最大の政敵である劉少奇を屠る一方で、自らの後継者として林彪を内外に認知させたからだろう。

だが「勝利の大会」を機に毛沢東と林彪との間で暗闘が始まり、やがて1971年秋の「林彪事件」を誘発し、モンゴルでの林彪夫妻不審死を経て四人組の跳梁へとつながる。だから、「真の意味での文化大革命は、一九六九年四月の党大会で終わったと考えるのが合理的」であるかどうかは別にして、「一九六九年四月の党大会」を境にして文革の性格が変わったことは確かだろう。

ならば「文革後期」とでも呼ぶに相応しい時期の香港を、存分に“満喫”したことになりそうだ。この間、1997年の香港暴動のように文革に呼応した紅衛兵式の過激な街頭政治行動が見られたわけではない。だが、それでも大陸から命からがら逃れてきた何人かの元紅衛兵と知り合う機会はあった。中には暫くして後、アメリカに渡った者もいた。《QED》


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