――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港28)
隊伍を組んだ若者は集落に入って文工隊活動を繰り広げ、農民を集めて歌や踊りで毛沢東を讃え、文革の意義を訴える。だが新界の農民には莫明其妙(チンプンカンプン)だっただろうに。
時には集会で小学生を整列させ、毛沢東賛歌を唱わせる。右手で『毛主席語録』を大事そうに抱え込む子供たちの左胸には、大きな毛沢東バッチが光り輝く。子供らは胸を張り、目を輝かせ、大きく口を開き、喉を振るわせ嬉々として唱う。その姿は、大陸で紅衛兵に勝るとも劣らないほどに残忍な方法で毛沢東の敵を嬉々として屠り去った紅小兵を彷彿とさせる。だが、香港では紅小兵を演じさせられていたというのが実態に近かっただろう。なによりも香港の紅小兵には倒すべき敵はいないのだから、こちらも莫明其妙だ。
赤地に黄色で「偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手毛主席万歳」と書かれた横断幕が張られた農村の集会所では、参加者に向かって古老が苦しかった時代を諄々と語り聞かせる。まさに「憶苦思甜」の風景だが、説き聞かせる側にしても、聞かされる側にしても、どこかウソ臭い。真剣になりたくても、真剣になりようがない。
1969年春節に郊外の海辺で左派労組が行った新年祝賀の野餐(野外パーティー)を捉えて写真では、参加者全員が洗いざらしの粗末な服の左胸に毛沢東バッチを付けている。先ずは『毛主席語録』を手に暗記した一節を声張り上げて唱和し、大鍋で煮炊きした「吃苦飯」(「吃苦菜」とも呼ばれた)を食べ、「憶苦思甜」の思いを噛み締め、青空を背景に翻る紅旗に下に数十人の老若男女が車座に座り、その輪の真ん中で10人ほどの男女の若者が「忠字舞」を舞った。形式上は毛沢東に対する「忠」だが、実際は食後の腹ごなしだったはず。
「苦飯」とは名ばかりで、実際はたっぷり目のブタ肉と白菜を煮込んだ「肥猪肉煮白菜」だったとか。だから「苦飯」と言うよりも「甜飯」だ。写真からは、楽し気な雰囲気が伝わってくるばかり。本土に漲っていたであろう緊張感は感じられない。
1969年の春節を前にして、家の入口の上部に「団結」、右側に「七億人民迎九大」、左側に「万千児女煉三忠」の対聯を掲げた農家もあった。香港の人々は「七億人」には入っていないし、「万千児女」にも組み入れられてはいないだろうとツッコミを入れたくもなるが、もはや香港なのか大陸なのか見分けがつきそうにない。もっとも当時、新界の集落の佇まいは地続きの広東省の農村地帯とほぼ同じだったから、新界の農家の軒先の春節風景を広東省のそれと同じに見えたとしても決して不思議ではなかった。
ところで「七億人民が迎え」ようとする「九大」とは1969年4月に開かれた第9回共産党全国大会を指し、毛沢東が「勝利の大会」と自画自賛し、文革勝利を宣言し、林彪が正式に後継者として認められている。因みに全面戦争一歩手前まで進んだ中ソ国境における武力衝突は、この年の3月から9月にかけて起きた。「万千児女(ちゅうかのこども)」が「煉(ね)」る「三忠」だが、究極的には毛沢東への「忠」に収斂してゆく。
だが「団結」にせよ、「七億人民迎九大」であれ、ましてや「万千児女煉三忠」であれ、香港の住民には全くと言っていいほどに関係がない話だ。
春節を寿ぐ対聯には「賀新年宏開九大」「全国山河一片紅」「革命節節成功」「生産蒸蒸上進」なども見られたが、どれもこれも香港には無関係である。都市部の左派系学校の運動会では労働者賛歌のマスゲームが繰り広げられたが、どうにもウソ臭く、今風の表現をするなら全体を覆う“やってる感”が虚しいばかり。
――以上が、中国系デパートの中間管理職の体験談と手持ちの資料を基にして振り返った見た1968~70年の“香港の文革”である。タテマエとホンネが錯綜し、演技臭さは免れず、親中左派の痛々しいまでのアリバイ作りであったとしか思えないのだが・・・。《QED》