――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港26)
“香港の文革”も大陸と同じように毛沢東がテンコ盛りだった。だが、やはり香港である。当然のことだが、どこかが違う。写真に見える金山楼の前を行き来する人々の服装は中国本土と違って色もデザインも多様であり、誰の胸にも毛沢東バッチは見当たらず、『毛主席語録』を持ってもいない。だいいち誰もが穏やかな表情だ。
どうやら“香港の文革”は限られた少数の左派が、限られた空間で、仲間内だけで盛り上がっていた。広東人が口にする「戸締りをして家族で麻雀」に近い状況ではなかったか。つまり「盛り上がっているのは身内だけ。世間とは無関係」ということ。これが「反英闘争」(=「香港暴動」)に敗北した後の香港左派の偽らざる姿。いわば負け犬の遠吠え、であろう。やや強引な表現ながら、香港における政庁(=英殖民地当局)と香港左派の力関係が、当時の国際社会におけるイギリスと中国の影響力の違いを反映していたのではなかろうか。
そういえば明治・大正・昭和を生きたジャーナリストの長谷川如是閑(1875年~1969年)は、1910(明治43)年のロンドン取材からの帰路に香港に立ち寄り、イギリスが清国から香港を切り取った手段は必ずしも正しかったとは言えない旨を綴った後、だが「何しろ衡の一方が飛び上がって一方が地に着いている始末だから、両者の間の平衡は強者の意思に代って維持せられる」(『倫敦! 倫敦?』岩波文庫 1996年)と記している。
イギリスが手荒な方法で殖民地化した香港の運命は、長谷川が説くように「強者の意思」によって「維持せられ」る。だから、香港住民の意思が入り込む余地はないと言うことだ。この長谷川の考えを敷衍して1970年代前後の香港における政庁と香港左派の力関係を考えるなら、香港は当然のようにそれぞれの背後に控えた「強者の意思に代って維持せられる」ことになる。であればこそ香港の運命は、その時々の「強者の意志」によって左右されるのは致し方のないことだ。もちろん21世紀初頭の現在の「強者の意志」は異様に過ぎるが。
さて“香港の文革”だが、実態的には仲間内の政治遊戯だったように思える。仲間内であるから過激の度を加える。仲間内だからこそ、過激さを制御する力が働かない。そこでいよいよ以って過激に奔る。いわば過激の相乗効果であり、そこで勢い、ゴ本家の文革を忠実に過激に倣ってしまう。第三者の目には滑稽極まりないモノに映ろうとも、である。
香港における中国の象徴でもあった中国銀行ビルの正面入口の上部には『毛主席語録』を模した2m×3mほどのディスプレイが掲げられ、その下には「我われの事業を領導する核心的力量は中国共産党である」「我われの思想を指導する基礎はマルクス・レーニン主義である」と『毛主席語録』の一句が麗々しく記されていた。
同ビルの壁面いっぱいには、毛沢東に率いられた中国の躍進ぶりが8m×15mほどの巨大なキャンバスに可視化されていた。もちろん、インチキではあろうが。
中央には両手で『毛沢東選集』を頭上高く掲げる労働者。右隣は左手で『毛主席語録』をシッカリと抱えた解放軍兵士。左隣は稲束を右肩に担いだ若い農婦。彼らの周囲には少数民族を中心に毛沢東の教えに従って雄々しく団結する中華民族の姿。その上部の林立する紅旗を背景に「絶対無敗の毛沢東思想万歳」。「革命委員会は素晴らしい」「革命を捉え、生産を促せ」の文革式スローガン。その上には大河が描かれ、その左右に群生する向日葵。大河の左岸は近代的重工業工場群で、右岸は巨大発電ダム。そして画面最上部中央には毛沢東を示す巨大な真っ赤な太陽。ご丁寧にも、太陽からは陽光が四方に放射している。
まさに文革当時の中国のどこでも目にすることの出来た毛沢東賛歌ではあるが、香港はゴ本家のそれとは明らかに違う。描かれた人々の顔が不思議なまでに緊張感に欠け、漢字が簡体字ではなく繁体字だ。“香港の文革”は左派のアリバイ作り。いや自己満足か。《QED》