――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港40)
いま改めて銭穆の業績を振り返るなら、「清代の大儒学者とされる章学誠の学統に連なり、中国史の発展と特殊性と伝統を重視し、通史・文化史・思想史・史学理論などの研究は他の追随を許さない」といったところが最大公約数的評価と言えるだろうか。
残された著作は全60冊(『錢穆全集(新校本)』九州出版社 2009年)に纏められている。字数で言うなら1700万字とか。これを400字詰め原稿用紙に換算すれば42500枚。一般に中国語を日本語に訳した場合に字数は最低でも4~5割増しになるから、64000枚ほどとなるから、じつに気が遠くなるような仕事量だ。
一時期、台湾は中国文化を復興した。台湾こそが中国だ、と内外から称賛されたことがある。毛沢東が文化大革命で掲げた「四旧(旧文化・旧思想・旧風俗・旧習慣)打破」に典型的に見られるように、大陸では共産主義の暴風が吹き荒れ、伝統打破は根こそぎ打ち倒された喧伝されていた。その象徴的な一例が毛沢東政権が進めた国語政策――繁体字から簡体字へ、縦書きから横書きへ――だろう。
蔣介石政権下の台湾は古代の文物を始めとして秦以来の歴代中華王朝の秘宝までを収蔵する、いわば中国の歴史と文化と伝統のタイムカプセルとも形容できる故宮博物院を擁していた。故宮博物院には中国文化が凝縮されていた。その充実度は、北京のど真ん中に位置する故宮を遥かに凌ぐと評価される。おそらく台北郊外の故宮博物院こそ、「自由中国」などを空威張りしながらも台湾で敗残の身を託つしかなかった蔣介石が毛沢東に対して示せる唯一最大の誇りだったはずだ。
古代の絢爛たる思念の世界が孔子に収斂され、それに続く歴代の儒者によって体系化され発展した儒学を大きな柱とする精神世界(=中国文化)こそを中国と考えるなら、あるいは蔣介石時代の台湾は中国文化を復興したと見做すことも可能だろう。だが、蔣介石が中国文化復興のパトロンたるを名乗るためには、やはり2人の大碩学を欠くわけにはいかない。1人が中国文化にアメリカ社会を象徴するプラグマティズム(功利主義哲学)を持ち込んだ胡適(1891~1962年)であり、残る1人が銭穆(1895~1990年)だと考える。
蔣介石が、サツマイモに似た形の台湾に“幽閉”されてしまった中華民国に正統中国であることの一縷の望みを託した根拠こそ、故宮博物院に加えて胡適と銭穆の2人の学者ではなかったか。
じつは毛沢東は胡適の存在感と内外における影響力を“有効活用”しようと、大陸に留まることを懇請したと伝えられる。だが胡適は自らの人生を敗残者の蔣介石に託した。蔣介石が銭穆に声を掛けたかどうかは知らないが、銭穆は台湾には赴かず南下し香港に逃れ、やがて毛沢東帝国となる中華人民共和国建国から9日後の1949年10月10日、香港で自らが信ずる《中国の学》の拠点建設を唐君毅らと共に目指した。
以後、紆余曲折を経た後、銭穆は香港を離れ台湾に渡り、蔣介石の庇護の下で中国伝統の書斎人として過ごす。晩年を送った素書楼は典雅な庭園のなかに佇み、現在は銭穆記念館として残されている。だが亡くなる直前に転居した台北に繁華街の住まいは、時に「生ける中国文化」とまで讃えられた一代の碩学の終の棲家としては、素書楼との落差は余りにも激しい。銭穆は、転居から僅か3カ月で息を引き取っている。さて憤死だろうか。
銭穆最晩年の“低調”は、あるいはパトロンであった蔣介石の1975年の死と関係があるようにも思う。つまり中華民国の台湾化であり本土化――台湾は「1つの中国」でも、「もう1つの中国」でもないし、ましてや「1つの中国」に対する「1つの台湾」でもない。台湾は独自の歴史と文化を誇るレッキとした正真正銘の国家である――が深化・定着するなかで、必然的に起こらざるを得ない数々の“現象”の1つだったと思うのだが・・・。《QED》