――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港168)

【知道中国 2286回】                       二一・十・初八

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港168)

 ここで想像を逞しくするなら、「関于制止上演“禁戯”的通知」が糾弾の対象とする「非合法劇団や素人一座」とは、当時巷に溢れた待業者(失業者)のなかで芝居心を持つ者が集まって結成した俄劇団ではなかっただろうか。

�小平が掲げた「先富論(誰でもいい。どんな方法でもいい。豊かになるヤツから先に豊かになれ)」を勿怪の幸いに、客を呼べる「淫毒奸殺」の演目を舞台に掛けた。昔取ったナンとやら。どさくさ紛れに一山当ててやれと企んだ元役者がいたように思える。

するとどうだ。10年に及んだ文革の間、革命現代京劇という毛沢東式の革命的勧善懲悪芝居に辟易していたことから、娯楽に飢えた人々が殺到した。かくして「非合法劇団や素人一座」の公演が重ねられる。大当たりに次ぐ大当たりの結果、「淫毒奸殺」が芝居小屋から社会に飛び出してしまい、「大衆に毒素をばら撒き、劣悪な影響を与え」ることになった。こういった乱れた風潮は、やはり共産党政権としては許しておく訳にはいかないということになったはずだ。

そこで中国政府(文化部)は、1950年から52年の間に禁戯処分にした演目を再び明示し、「関于制止上演“禁戯”的通知」を出した。おそらく、そんなところが実情に近いのではなかろうか。

じつは文化部は1979年9月にも同じような内容の通知を出している。この点から考えるなら、対外開放初期の混沌とした社会では、舞台と言わず社会でも「淫毒奸殺」が大手を振って歩いていたようにも思えてくるのだが。

やはり「淫毒奸殺」が消えた舞台なんぞクソ面白くもないのである。舞台に「淫毒奸殺」の非日常の世界が描き出されるからこそ芝居は人々を引きつける。これは古今東西を超え、イデオロギーや政治信条に関係のない人間社会にとって常理だろうに。

�小平が踏み切った対外開放は、毛沢東思想が一元的に支配する閉鎖体制をブチ破り、基本的には現在につながる経済成長のスタートとなったわけだが、その一方で舞台に「淫毒奸殺」を解き放ってしまった。こう考えるなら、「関于制止上演“禁戯”的通知」から、対外開放初期の社会の実態が浮かび上がってくる。

閑話休題。

ここで奇妙に思うのが建国後の毛沢東政権にしても台湾に逃げ込んだ後の?介石政権にしても、共に「大劈棺」を禁戯演目に指定していることだ。政治的には互いに不倶戴天の敵であるはずの2つの政権が、期せずして同じ演目を禁じたのである。

この演目の種本は「蝶の夢から覚めた荘子が、夢の中の蝶が自分なのか。それとも夢から覚めた自分が自分なのか」を問う、例の“荘子胡蝶の夢”である。

荘子が歩いていると、若い女が道端に蹲り手にした扇で盛んに土饅頭の墓を扇いでいる。こんなシーンで「大劈棺」は始まる。土饅頭は水分を含んでいて真新しい。墓穴を掘って死者を葬ったばかりであった。そこで荘子が声を掛けると、「墓が乾けば新しい夫と結婚できる」との返事。同情した荘子が手伝って2人で扇ぐと、程なく墓は乾燥した。彼女は扇を荘子に渡して感謝するや、小躍りしながら新しい夫の元へ。

帰宅した荘子が妻の田氏にこの話をすると、田氏は荘子の手にした扇をひったくって破り捨て、「世の中にこんな破廉恥があろうとは」と憤慨する。この姿に接した荘子は、妻の貞節振りに感動すること頻りだった。

数日後、突然、荘子が死んでしまう。もちろん田氏の嘆き悲しみようは尋常ではない。通夜の席である。棺に額ずき嘆き悲しむ田氏の前に荘子の弟子がお悔やみにやってきた。それが眉目秀麗の超イケメン。そのうえ独身。かくて田氏は一目惚れ・・・オイオイ。《QED》


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