――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港66)

【知道中国 2184回】                      二一・一・仲三

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港66)

 

危なっかし気な香港での住民の暮らしぶりについて、長谷川は興味深い指摘をしている。

香港島は真ん中に聳える「海抜千八百呎のヴヰクトリア・ピーク」から勾配の急な山肌が一気に海岸線に迫っている。いわば平らな場所が極めて少ない。現在ではヴィクトリア港側に相当にせり出した平地が見られるが、あれは長い年月を掛けて埋め立てを重ねた結果であり、おそらく長谷川が訪れた当時は海岸線のギリギリまで山裾が迫っていたはずだ。

だから「船から見た香港は高い山の中腹まで家を盛り上げて、そのうえに森をかぶせた」ように見えるが、その森の中に点在する豪華な家は、イギリス人をはじめとする西洋人の住居になる。そこには、彼らの許に嫁いだ中国人女性、それに両者の間に生まれた欧中混血児も住んでいた。欧中混血児の代表格が殖民地の“裏の総督”として振る舞うことになる何東爵士(サー・ロバート・ホートン/1862~1956年)だった。

一方、一般の中国人は海岸線の僅かな平地に密集して住むしかない。そこで「香港の街の交通機関は、横に通ずるものと竪に通ずるものとは全く種類を異にしている」のだ。

「西洋人は多く高所に家を構えて低所の事務所に出掛けて来るし、支那人は横に伸びて発展しているから、西洋人は香港を竪に歩く人種で、支那人は横に歩く人種である」。だから「西洋人は香港を急勾配の所と思っているだろうし、支那人は香港を平坦な所と思っているに違いない」と説く。同じ香港ながら、支配する側と支配される側では異なった地理感覚を持つということだろうが、長谷川の指摘は現在に通ずるようにも思える。

同じ「一国両制」であっても、支配する共産党政権と支配される香港住民とでは全く異なった捉え方をしているではないか。「一国」に固執し圧倒的比重を置く共産党政権に対し、飽くまでも「両制」に望みを託そうとする香港住民という図式だ。

これを言い換えるなら、返還交渉時点で、共産党政権は強権の野望を「一国」に秘匿し、香港住民は「両制」の先に「高度な自治」を夢想した。であるとするなら「一国両制」とは、共産党政権と香港住民の敵同士が同じ香港という“小舟”に乗り合わせた呉越同舟の現代的表現とも考えられる。いや実態に即して見るなら、あるいは同床異夢の別の表現かもしれない。つまり、かりに「一国両制」にフリガナを振るとするなら、「一国両制(ごえつどうしゅう)」、或いは「一国両制(どうしょういむ)」となろうか。

であればこそ、1980年代半ば、「返還後の香港のかたち」を不安視する香港の親中系有力者を北京に呼びつけ、「一国両制」を示しただけではなく「50年不変」を語って香港住民を安堵させた鄧小平の老獪さを思い知ることになるのである。敢えて言うなら、どうやら香港住民のみならず世界は鄧小平が掛けた「一国両制」というペテンにものの見事に引っかかってしまったのだ。今になって話が違うとホゾを嚙んだところで、後の祭りだろう。ここで思い出すのが、第2次大戦時の米陸軍最高の中国通で知られたスティル中将の死を前にした呟きだ。「きみわからんのかね、中国人が重んじるのは力だけだということが」。

「目下当地の西洋人は数は六万余、支那人はその五倍強の三十余万というから、多数決で行けば香港は無論平坦な所である」との長谷川の指摘を援用するなら、現在の香港住民の大多数は共産党政権に諸手を挙げて賛成はしていないだろう。ならば「多数決で行けば香港は」言うまでもなく「高度な自治」が行われていていいはずだが、現状はそれを許さない。いや、それが許されない。敢えて酷な表現をするなら、宗主国がイギリスから中華人民共和国に代ろうが、香港が殖民地であることに変わりはない、ということだ。

だから共産党政権、いや中国の権力との交渉に際しては、「オレはションベンを焦っちゃいないってのに、お前が尿瓶を持ってどうするんだ?」(『兄弟 (上下)』余華 文藝春秋 2010年)との教訓に行き着く。安易な思い込みや妥協は断固として禁物である。《QED》


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