――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港147)

【知道中国 2265回】                       二一・八・念二

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港147)

 20世紀における中国古代史研究に新しい道を切り開いた顧頡剛は、20歳になった1913年(民国2年)に北京大学予科に入学している。そこで京劇に出くわし戯迷になっていく様子を、「(自分が)南方にいた時、いつも北京の芝居のすばらしさを聞いていたし、文芸マニアの聖陶君が、またしじゅう私に芝居の効用を賛美していた。〔中略〕いまや私はこんな福分にありついて、芝居の本場である北京に住むことができたのである。見て見て見まくらずにどうして辛抱しておれよう。とうとう私は『芝居狂』になってしまった」(『ある歴史家の生い立ち』岩波文庫)と綴っている。

 本当の本場である北京から見れば香港は遥かに南方に離れているだけではなく、粤語(広東語)文化圏でもある。つまり異文化圏、いや極論するなら“化外の地”と見紛うばかりの僻遠の地であった。そのうえに演ずるのは童伶(こどもやくしゃ)であり、しょせん彼らの多くの母語は粤語だろう。ならば京劇の看板を掲げていようとも、マガイモノ同然に見なされても致し方あるまい。

 だが、そんなことは百も承知、二百もガッテンである。当時は文革の真っ盛り。やや大げさに言うならば、この地上で古典京劇の、しかもナマの舞台に接する機会などあろうはずもない。こう諦めかけていたところが、目の前に第六劇場が“忽然”と現れたわけだから、ここを「芝居の本場」と見定めて、「見て見て見まくらずにどうして辛抱しておれよう」。かくして「とうとう私は『芝居狂』になってしまった」のである。

では、「こんな福分」を与えてくれたのは誰か。それが家庭教師を務めた4人の子供の父親で、中文大学で数学を教えるアメリカ人教授だった。

 振り返れば香港の長期滞在が可能になっただけではなく、戯迷への道を突っ走る好機を与えてくれたのも、青虫の唐揚げの味を教えてくれたのも、尖沙咀の路地裏にあったサルの脳味噌料理の店に連れて行ってくれたのも、研究者としての生き方を身をもって示してくれたのも、新聞の読み方を教えてくれたのも、日本では知ることのなかった地政学という学問のイロハを教えてくれたのも・・・凡て、このアメリカ人教授だった。まさに人生の師。感謝以外の言葉はない。

 ある時、家族全員との昼飯を終えると、「あ~、今日は~、ムスメやセガレに教えるのを少し早く切り上げて~、イイデスカ。面白いところに行きましょう」と。こちらとしては異論があろうはずもない。そこで、いつもより早めに4時頃に切り上げた。しばらく待つと、長女と長男が着替えて出てきた。さて、4人で愛車のフォルクスワーゲンに。例のカブトムシの愛称を持つアレである。もちろん塗装は定番の深草色。

 慎重で厳格なお父さんである。2人の子供は安全ベルトでしっかりと椅子に固定された。

小姐(おてつだいさん)が鉄の門を開けると、車が動き出す。

 未舗装の坂道をしばらく下ると大通りに出る。そこを左折すると、車は大帽山の山肌を縫うように走る道路を猛スピードで突っ走る。カーブでは英国軍の傭兵であるグルカ兵の運転する軍用車両をガンガン追い抜く。意外にも教授はスピード狂だったのだ。些か不安げなこちらの顔色を見て取ったのだろう。ハンドルを握りながら、「怖いですか~、あの~、空軍でジェット戦闘機を操縦していたから、問題ない」。それはそうかも知れないがムスメとセガレは戸惑い、ビビってますよ・・・。

やがて車は市街へ。山の中の一軒家に住み、外界とは接触のない子供たちである。見るもの聞くものが珍しく、キョロキョロと好奇の目が輝いていた。やがて到着したのが茘園だった。些かセッカチな教授はズンズン進む。2人と手を繋いで人ごみの中を後を追う。普段は目にすることのない他人が、ワンサカといるわけだから、2人の緊張は激しい。《QED》


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