――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港161)
アバタのエクボ、だろうか。「あの騒々しい所」だけではなく、なにからなにまでが「よかもん」となってしまう。我ながら、じつにコマッタものだ。
次の中国人だが、前回(第2265回)に引き続き顧頡剛に再登場願う。生まれは毛沢東より半年程早い1893年5月で、死亡は毛沢東より4年3か月遅い1980年12月――毛沢東とほぼ同時代を生きたことになる。
それまでの倫理道徳的立場、言い換えるなら道学者センセイの説く是非善悪の視点からではなく、「科学の工作」として「多くの古史論文を書いた」と自らを振り返る彼は、古史研究に踏み出すまでの歩みを『ある歴史家の生い立ち ――古史辨自序』平岡武夫訳 岩波文庫 1987年)として記した。
故郷に居た当時から「北京の芝居のすばらしさを聞いていた」彼は、1913年に20歳で北京大学予科に入学する。「芝居の本場である北京に住むことができた」ことを、「福分にありついて」と甚く感激するだけあって、「見て見てみまくらずにどうして辛抱しておれよう」。かくして「とうとう私は『芝居狂』になってしまった」と率直に告白する。
誰のどの演目というのではなく、「どんな流派でも一座でもおかまいなしに、どれも幾度も見た。北京中の俳優はたいがい見て廻った。毎日登校はするが、二時間目の終わるころには、すでに東安門外の広告板に各劇場の番付が貼り出されていることを知っていたので、休息の十分間に〔中略〕駆けつけ見わたし、午後に見に行く芝居を選んだ」のである。
かくて「学校の授業は午後はもともと割合に少なかったし、たとえ授業があっても私はサボってしまった。この芝居狂いをして二年余りの間、私個人が放縦になり、学校の成績が低下したことはいうまでもない」わけだ。
香港と顧頡剛が芝居に狂った当時の北京では、京劇を取り巻く社会環境が余りにも違い過ぎる。春秋戯劇学校が公演する第六劇場だけでは、「どんな流派でも一座でもおかまいなしに」と言うわけにはいかない。だが、それでも「どれも幾度も見た」ことは同じだろう。
「二年余りの間」の芝居狂いをキッカケに顧頡剛は種本と舞台の関係を考察し、やがて古代史研究の大海に船出して行った。
閑話休題。
顧頡剛が「東安門外の広告板に各劇場の番付が貼り出されていることを知って」と記す「各劇場の番付」を「戯単」と呼ぶ。つまり劇場や劇団――というより小屋であり一座と記すのが相応しいとは思うが――は、事前に演目と役者を記した戯単を告知する。
「東安門外の広告板」のように定められた場所もあるが、一般には小屋の入り口、舞台の脇、新聞などで目にする戯単に記された演目、役者を目安に、客は劇場に足を運ぶわけだ。好みの演目、贔屓の役者が目に入ったら、居ても立っても入られないという寸法である。そこで戯単は客の観劇心を鷲掴みするように煽り気味に書かれることが多い。
ともあれ、書かれる名前の順番と文字の大きさが個々の役者の芸の深みを反映しプライドを裏支えしていると同時に、人気を表すバロメーターでもある。加えて演目はその時々の社会状況を微妙に反映しているだけに、それぞれの時代、それぞれの場所での芝居小屋を包む社会の様子が戯単から浮かび上がってくる。
たとえば中国人が「淪陥区」と呼んだ日本軍管制下時代の上海で舞台に立ち続けた周信芳(文革で惨死)は、盧溝橋事件後には好んで「徽欽二帝」を上演する一方、舞台両袖に「文天祥」や「史可法」などの戯単を掲げた。これら異民族の侵略に敢然と立ち向かった救国の英雄を賛美する演目を上演することで、観客に向かって日本軍への抵抗を呼びかけた。舞台はアジテーションの場に、戯単は政治的パンフレットにも化けるのである。《QED》