――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港46)

【知道中国 2164回】                      二〇・十一・念七

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港46)

 

映画についてもう少し。

当時、一般的映画館の多くは「早場」と称して、朝早く(9時頃?)から過去の、殊にB、C級の作品を選んで上映していた。ともかくも安い。そのうえに毎月の上映予定が記されたビラが配られるから、何カ所かの映画館のビラを突き合わせて、面白そうな映画を選び、ヒマ――率直に言って365日がヒマだったわけだが――に任せて早場に通った。

50、60年代は庶民の娯楽のトップに君臨していた映画だったが、70年代に入るやテレビの急速な普及に伴って一気に斜陽化する。ことに粤語片(かんとんごえいが)は小資本の制作会社が多かっただけに、やはり財政負担に耐えられなかったようだ。それまでは年間100本以上が撮られていた粤語片も、1970年には35本、72年に至っては製作ゼロ。73年の『七十二家客房』のヒットに刺激され、74年(21本)、75年(28本)と回復したが、長期低落化を押し戻すことはできなかった。

早場で上映された作品は、50年、60年代に撮られた粤語片を主に、香港と台湾の国語片(ちゅうごくごえいが)、洋画、時に文革以前に撮られた中国作品――スタジオ製作の粤劇(かんとんオペラ)や潮劇(ちょうしゅうオペラ)が主だが、稀には京劇――などだった。

特に印象に残っているのが家庭内不倫の悲劇を描いた台湾作品の『先生・太太・下女』、アルジェリアとフランス共同制作で独裁政権の内実を抉る『Z』、当時世界的にヒットした『ゴッド・ファーザー』の徹底したドタバタ・パロデイー版だった『真仮教父』など。

当時よく通った映画館の名前を思い出すままに記すと、深水埗の大世界戯院と明声戯院、油麻地の光明戯院と金萃戯院、佐敦道の快楽戯院と楽宮戯院、尖沙咀の山東街の麗斯戯院、旺角の百老匯戯院と新華戯院など。すでに相当にモノズキではあったが、さすがにフェリーで海を渡って香港島の映画館まで出張る程にはモノズキではなかった(!)。超一等地にあっただけに、どの映画館も跡地はいまでは超高層の複合ビルに姿を換えている。

『金光大道』などの毛沢東思想的刻苦勉励・勧善懲悪で貫かれた現代劇、革命現代京劇の映画版、さらにヴェトナム戦争支援や原爆実験成功を祝う記録映画などの中国映画は、たとえば佐敦道の普慶戯院のような中国系の豪華な大劇場で上映されるのが常だった。

『大公報』『文匯報』の中国系メディアは極く当然のように「連日満座」「爆座」などと大入り満員を煽っていたが、客席に座って目が慣れると、これまた当然のように客はチラホラで寂しい限り。当時の香港における中国の影響力のあやふやさ、あるいは一般市民の中国系メディアのプロパガンダに対する醒めた目線が感じられたものだ。

中国の映画の中で殊に印象深かったのが、新疆省の砂漠地帯で行われた原爆実験に関する記録映画だった。

先ずスクリーンに毛沢東の「原爆は張り子のトラだ」とのゴ託宣が金科玉条の如く映し出され、「原爆は怖くはない。白色は放射線を撥ね返せる」といった趣旨のナレーションが力強く響く。するとスクリーンには馬に跨った白い帽子に白いマントの指揮官が映し出される。カメラが引いて遠景に転ずるや、そこには同じく白装束の夥しい数の兵士の隊列が。さらに外壁を白く塗ったビルや白いトタンで覆った犬小屋なども。

たしか指揮官以下兵士までが濃い色のサングラスで目を覆ったはず。次の瞬間に原爆が炸裂し、閃光がスクリーンを奔った。猛烈な熱風で小屋は吹き飛ぶが、中の犬はなんと無事(マサカ!)。もくもくと立ち上る巨大なキノコ雲を目がけ、馬上で軍刀を打ち振るう指揮官を先頭に全兵士が高速前進。「ワー!」と兵士たちの吶喊の叫びが館内を揺さぶった。

映画は「百戦百勝」の毛沢東思想賛歌で終わった。さて、あのキノコ雲に突進した兵士たちは原爆後遺症に悩まされはしなかったか。彼らのその後が気になる・・・のだが。《QED》


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