――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港112)

【知道中国 2230回】                       二一・五・初五

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港112)

九龍城に足を運ぶようになったキッカケは、その後背地に位置する小山状の「基督教墳場」の探索にあったように記憶する。

二日酔いでボケーッとした時、研究室を抜け出して静かな墓地で時を過ごせば、少しは悔い改める気持ちが起こり、精神がシャキッとするのではなかろうか。じつに浅はかな思い付きから、研究所事務係で京劇仲間の洪さんに近くに墓地はないかと尋ねる。すると怪訝な顔をしながら、「少し歩くが、基督教墳場がいいと思う」と道順を教えてくれた。

キャンパスから基督教墳場まではゆっくり歩いて20分ほどだったような。

聯合道のだらだらの上り道を少し進むと右手に、まるで無数の墓石は生えているように並んだ小山が見えてくる。基督教墳場だ。

その後、粉嶺や東華義荘に通うようなってからは奇異に感ずることはなくなったが、それでも最初に目にした時には、墓石の数に壮観の2文字が浮かんだものである。

目の前には無数の墓石、地下に埋もれているはずの無数の棺、頭上を行き来する近代科学の粋を集めた旅客機。なんとも不思議な雰囲気に時を忘れていると、いつしか昨夜のアルコールが消えてスッキリ。

墓地の最上部に立って香港島の方角を眺めると、海に真っ直ぐ突き出た啓徳機場の滑走路が見える。目線を手前に戻すと、啓徳機場の空港ビルの手前に老朽化した高層雑居ビル群。これが九龍城だった。位置関係で言うならば基督教墳場、九龍城、空港ビル、それに滑走路がほぼ直線に並んでいることになる。

九龍城に近づいて先ず驚いたのは、「牙科(はいしゃ)」、「診療所(クリニック)」、「跌打(ほねつぎ)」「耳鼻喉皮膚性病」「花柳科」などのカンバンの多さだ。どうやら医者は九龍城の名物の1つだった。九龍城閉鎖を前にした時点で、牙科医は86人、医師は68人を数えていたらしい。その大部分が1950年代に中国で教育を受けたことから、基本的にはロシア語教育世代。おそらく中国からの脱出組だろう。香港では医師免許が取得不可能だったことから、やむを得ず九龍城での開業に踏み切ったらしい。

香港城が位置する地盤は基督教墳場の山裾から啓徳空港の方角に向かって、北から南に緩やかに下る傾斜地であることから、北側の1階は南側の4階に当る。高層部分は14階ということだが、上部階に不法建築(とはいえ、九龍城全体が不法建築のデパートのようなものだが)が立ち並び、じっさいのところ何階建てなのか見分けがつきそうにない。

ビルとビルの間の細い路地に入って上を見上げると、空が見えない。それもそうだろう。両側の壁をブチ抜いて通路のようなものを造り、わずかな隙間も住まい、あるいは店舗として利用しているわけだから。

大通り側から見上げると、道路に面した窓には鳥籠のような鉄柵がつけ足されていて、ベランダや住まいとして使われている。危険をものともせず居住空間確保を目指すのだ。

ブタの丸焼き工場、漢方薬局、西洋薬局、製麺工場、九龍城専門の不動産屋、プラスチックのおもちゃ工場、レストラン、麻雀屋、黒社会の事務所、美容院、床屋、食品工場、手術室まで構えた怪しげな医院、中華食材工場、老人中心(ろうじんクラブ)、小鳥屋、タワシ工場、皮のなめし屋、雑貨屋、木工場、餃子工場、生地屋、テーラー、乾物屋、お茶屋、パン屋、コーヒー屋、婦人服専門店、幼稚園、肉の解体屋、太極拳道場、精密部品工場などなど・・・そこには無数の生活があった。

たしかにアナーキーな空間で、汚く暗くじめじめしていて隠微で危険な雰囲気が漂うが、強い“磁力”を秘めている。一歩足を踏み入れるとウキウキしてくるし、そのうえ通うたびに目新しい発見があるから、やはり九龍城散策は止められないのだ。《QED》


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