――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港141)
サッチャー首相が持ち出したイギリス側の要望は鄧小平に鼻先であしらわれ、完膚なきまでに拒絶されてしまう。鄧小平の傲慢ぶりには、やはり「鉄の女」もカタナシだった。
ここで思い出されるのが、長谷川如是閑が綴った香港領有をめぐるイギリスと清国との国力の違いである(2182回参照)。
長谷川は「英国は千八百六十年の条約でこの九竜と香港とを取って更に九十八年に北緯二十一度九分の線から北を東経百十三度五十二分より百十四度三十分に至る間、真四角に分け取ったがその手段は余り真四角ではなかった。何しろ衡の一方が飛び上がって一方が地に着いている始末だから、両者の間の平衡は強者の意思に代わって維持せらる」(『倫敦! 倫敦?』岩波文庫 1996年)と説いた。
つまり長谷川はイギリスの香港領有(香港島と九龍の割譲、新界の半永久的租借)はイギリスが軍事力で強引に進めたわけで、余り褒められたものではない。だが国際政治の動向が力によって定まる以上、致し方がない。イギリスの要求は余りにも過酷であり、無理無体が過ぎる。だが相手は強国である。所詮は弱国に過ぎない清国は、嫌々ながらもイギリスの横紙破りを受け入れざるを得ない。無理が通れば道理は引っ込む。これが古今東西を貫く国際政治の大原則。もっとも清国側に十全の道理があったとも思えないが。
ところが、それから1世紀半ほどが過ぎるや、かつて世界に覇を唱えていたイギリスは凋落の一途。反対に中国が台頭してきた。かくて中国の敵討ちが始まる。こんどは中国側が無理を通す順番だ。中国側の要求が通らないわけがない。いや、断固として通してやる。これが鄧小平に率いられた共産党政権の考えであり、鄧小平の老獪な手練手管にサッチャーは吞み込まれてしまった。「両者の間の平衡は強者の意思に代わって維持せら」れるのだ。
かくして香港返還に関する中英交渉は中国ペースで進み、1984年12月、北京で「中華人民共和国政府と大ブリテン及び北アイルランド聯合王国による香港問題に関する聯合声明」が正式調印され、殖民地は1997年6月30日深夜までと定まったのである。
以後、この日から殖民地最終日までを「過渡期」と定め、中国側は返還に向かって次々に布石を打ち、これに香港の企業家が呼応していった。以下、山形勲にオ殿サマを、三井弘次に越後屋を演じてもらうことにして・・・
「のう越後屋、もそっと近こう寄れ。こたびの返還、そう容易いことでもない。そこでモノは相談じゃが、貴公の力添えを願えたら、このうえなく心強い。ワシの無理を聞き入れてくれるなら、有難い限りというもの。そこでどうじゃ、承知してくれるか」
「もちろん喜んでお受け致します。オ殿サマのゴ尽力で成し遂げられた返還と言う民族の歴史的大偉業。一大慶事。殖民地なんぞに巣食ってしがない商いでその日暮らしをしておる卑賎の身ではございますが、越後屋とて中華民族の端くれ。これに優る喜びはございません。なんなりとお申し付けくださりませ。存分な働きをお見せ致しとう存じます」
「よくぞ申した。越後屋、忝い。ところで先代が散財したため手許不如意でのう。ゆえに香港に回す算段が立たぬ。そこで相談じゃが返還に掛かる費用をソチが持ったうえで、香港に住まいするモノドモに目眩ましを喰らわせ、コチラに靡かせてもらいたい・・・どうじゃ、やってくれぬか。なんせヤツラはワシを骨の髄から嫌っておるからのう」
「お安いゴ用でございます。水道、ガス、電気、電話・・・ヤツらの生活の一切はコノ越後屋が握っておりますゆえ、ギュギュッと締め上げればグーの音も出せません。お任せくださいまし・・・ところでオ殿サマ、世に“井戸を掘った人”と申しますが・・・」
「皆まで申さずと承知しておる。ソチの悪いようにはせん。おい越後屋、ソチもワルよのう」「滅相もない。オ殿サマには敵いません」・・・かくて返還バブルが巻き起こる。《QED》