――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港42)

【知道中国 2160回】                      二〇・十一・仲七

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港42)

 

本土、香港、台湾と歩いた銭穆所長の学者人生を、唐君毅、牟宗三、徐復観、全漢昇、厳耕望先生らも倣った。この巡り合わせは偶然の一致というより、むしろ大陸・台湾・香港――両岸三地を包括する国際環境の変化の中で捉え直すべきだろう。

先生方の学者としての信念は儒家思想の純化であり、中国史の本然の道筋を探ることであり、それを経世済民(せいじ)に生かそうということだったはず。本来的には民主を内包している儒家思想を汚染し、歪曲化したのは専制帝王、いわば歴代中華王朝だ。本来の姿に戻した儒家思想に民主と自由の思想を吹き込み、中国文化を新しい時代に相応しい強靭な姿に再生させる――ここら辺りが先生方の信念の“最大公約数”だったように思える。

ここで気になるのが、先生方が没年だ。

唐君毅(1978年)、徐復観(1982年)、銭穆(1990年)、牟宗三(1995年)、厳耕望(1996年)、全漢昇(2001年)と追ってみると、たしかに寿命でもあろうが、なには不思議な糸に貫かれているようにも思える。

台湾の脱中華民国化の歩み、言い換えるなら社会の各領域における本省人の影響力拡大の過程――政治指導者をみるなら省籍対立の解消に先鞭をつけた?経国、民主化に向け大胆に舵を切った李登輝、そして国民党独裁体制を破り初の民進党政権を打ち立てた陳水扁――に重なるのである。

先生方が存命なら、大陸の習近平政権が展開する厳しい軍事的攻勢に立ち向かうし蔡英文政権下の現在の台湾を、どのように見るだろうか。さらには絶対的な独裁体制を布き、アメリカと厳しく対立し、世界の覇権を目指して策動を繰り返す習近平率いる大陸を、中国と認めるだろうか。

とどのつまり中国とは、そして中国人とは・・・これまでも考えながら一向に解けぬ命題をこれからも考え続けることが――あるいは陳腐過ぎる表現であることは十分に承知してはいるものの――やはり先生方の学恩に謝する道ではなかろうか。

さてモノはついで、である。銭穆所長の思い出の補足を。

正確な日付は忘れたが、淡江文理学院の短期研修でお世話になった林丕雄教授を台北のお宅に訪ねたことがある。狙い通り数日間、寝床と食事の御世話になった次第だが、その際、淡江での銭穆所長の講演が話題に。じつは銭穆所長は江蘇省無錫の産。林丕雄先生が翻訳を任されたものの、話す言葉が正確に理解できない。だから日本語に的確に訳せない。ことに専門学術用語が混じった会話ではお手上げ状態。せめて“銭穆史学の一端”なりとも日本の若者に理解させようと、1週間ほど銭穆所長宅に住み込んで万全の準備をしたとか。

そこでハタと思い出したのが、「中国で標準に近い中国語を話す学者にロクなものはいない」との唐君毅先生の言葉だった。

やはり中国は広い。風俗習慣と同じように方言も多種多彩で複雑雑多、千変万化で五里霧中。同じ省内でも通じないことも珍しいことではない・・・と言うわけで、新亜研究所の先輩だった麦仲貴さんの思い出の欠片を。

麦さんのルーツの広東省南部沿海に位置する台山県。一帯で話される方言の台山語は、香港で一般的な広東語との意思疎通は容易ではないとか。研究所の他の先輩も「麦の言うことはワカラン」と。その麦さんが、2年間の京都大学留学から戻ってきた。そこで歓迎の昼飯会となり、最年長の先輩を先達にレストランへ。最後尾でバカ話をしながらだから、麦さんと私は遅れがち。いよいよメシである。先輩の1人が私に、「いったい、どうやって台山語を覚えたんだ」と。別に台山語を学んだわけではない。2人で日本語で話していただけだ。どうやら先輩連には、台山語と日本語の区別がつかなかったらしいのだ。《QED


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