――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港42)

【知道中国 2160回】                      二〇・十一・仲九

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港42)

 

その後、必要に応じてボツボツと、知らず覚らずに広東語の日常会話を覚えることになる。たしかに中国語(一般に大陸では「漢語」、台湾では「国語」と呼ぶ)と広東語とは違う。漢字の読み方(発音)は異なり、文法も必ずしも同じと言うわけではない。時に中国語の学習ではお目にかかることのない漢字までもが登場する始末だから、厄介極まりない。

たとえば中国語で「我現在回家(いま、帰宅する)」は、広東語で「我而家返屋企」となる。「有」の字の橫の2本棒を取り去って「モウ」と読み、「無し」の意味――とてもじゃないが、マトモには付き合えそうにない。だが、だからこそ広東語はオモシロイんです!

とはいえ「広東語こそ中国古来の正しい言葉である。現在の中国語は独裁強権政権の国語であり、極論するなら東北部の野卑な土語であり、古代中国王朝以来の雅な言語には連ならない」(陳雲『粤語學中文、愈學愈精神』花千樹 2014年)との考えも見られる。この「広東語国粋主義」とでも呼ぶべき考えが、香港独立という主張を産み出す土壌となった。

後にタイにおける華僑・華人社会に興味を持つようになり、彼らのルーツである広東省東端に位置する潮州地方を現地調査したことがある。そこで驚いたのが、一帯で話される方言の潮州語で使われる漢字には、やけに「クチへん」が多く、ウンザリしたものだ。

方言の違いにはじまり風俗習慣・冠婚葬祭・土俗信仰・家屋構造など――朝起きてから寝るまで、いや寝ている間も。加えて誕生から死亡まで、いや死後の世界すらも――生活文化全般にわたって種々雑多な中国と呼ぶ世界を一元的に統御するには、やはり圧倒的な力しかない。どう転んでも面倒な相手だからこそ、20世紀前半のアメリカ軍を代表する中国通のジョセフ・スティルウエル将軍(1883~46年)が死の床で呟いた「きみわからんのかね、中国人が重んじるのは力だけだということが」との述懐が素直に納得できる。

京劇の芝居小屋通いに狂っていなかった留学当初は、朝、佐敦道碼頭の巴士站(バス停)で啓徳空港方面行きに乗り、北京飯店(Y先生からの栄養補給ベース)の前で降り、少し先を左折して馬頭圍道を進む。緩い上り勾配の右曲がりの道を100mほど進むと、右手が新亜書院のキャンパス。正門を入って左手の建物に研究所が置かれ、正門を背にして右手が図書館で、真正面の奥まった辺りが学生食堂だった。

客飯(ていしょく)は1汁1菜。とはいえ数人が一緒に注文すると、人数分のスープを大きな容器に入れてくれた。そこで何人かで別々の料理を注文すれば、ちょっとした豪華な食卓を囲む雰囲気に浸れた。白飯(ごはん)は食堂の真ん中に置かれた木桶のなかに入っている。木桶の横の小さなバケツに水が張られ、竹製のしゃもじが突っ込んである。そのしゃもじで、白飯を自分で盛る。分量はお好みのまま。何杯食べてもお替り自由でタダ。

ある時、食堂の窓口のオヤジに「白飯は無料か」と訊ねると、「当然!」。そこで日本から各種のふりかけを送ってもらった。ある日、ふりかけ持参で食堂へ。窓口のオヤジから茶碗を借りて白飯の入る木桶へ。白飯を盛ってふりかけで昼食だ。最初の内は「日本仔はヘンテコリンなものを食べる」とモノ珍しげにニコニコ眺めていたオヤジだったが、さすがに日を重ねると、やや怒気を含んで「白飯代を出せ!」と。そこで「白飯はお替り自由だろうに!」と応えはしたが、やはり後ろめたい限り。平身低頭で謝って、次からは通常の“作法”に戻した。因みに「日本仔(ヤッポンチャイ)」は時に愛称、多くは蔑称。

学食に行かない日は近くの客家料理の酔瓊楼へ。たしか当時、酔瓊楼が香港各地で積極的に客家料理のチェーン展開をしていたはずだ。客家料理は元来が高級というわけではなく、そのうえ昼飯だから宴席ではない。客の多くは体力勝負の労働者で、当然ながら質より量。皿に盛られたテンコ盛りの白飯のうえに、何種類かの料理がドバッと掛けてある。

私は毎日が豆腐飯。早くて旨くて超安価で、そのうえ栄養満点だった。《QED》


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