――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港36)

【知道中国 2154回】                      二〇・十一・初三

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港36)

 

唐君毅先生の次に思い出されるのは、やはり牟宗三先生だろうか。

いつも頭はサッパリと短く刈り上げられ、その下の目は鋭い光を放っていた。細面で中肉中背。春夏秋冬を問わずに身に纏った中国服の裾を華麗に捌きながら、キャンパス内をゆったりと散策していた。たしか足元は中国伝統の布靴が多かったような。これぞ伝統的中国読書人の典型と思われるような立ち居振る舞い。いつ見ても“只今思索中”と言った雰囲気で、やはり近寄り難かった。とはいえ時に恐る恐る声を掛けると、ギロッと一瞥した後にフッとこぼれる笑顔から、生来の優しさの一端が感じ取れるようでもあった。

1909年に山東省生まれだが、祖先は湖北省からの移住している。1928年に北京大学予科に。その後、哲学系に転じ33年に卒業し、翌年には「国家社会党」に参加している。在学中、20世紀中国を代表する思想家で、後に文革への抗議の意を込めた絶食が原因で病死したと伝えられる熊十力に師事した。互いに政治環境の違った地域に住むことになったが両者の間の師弟関係は終生続き、熊の学統を継承したと評価される。

大学卒業後、故郷の師範学校を振り出しに広州、山東、広西などの中学で、その後は華西、中央、金陵、浙江などの大学で西洋哲学を教えた後、49年に台湾へ。台湾師範大学、東海大学を経て60年に香港大学へ。68年に新亜研究所へ。70年代半ば以降は再び台湾に移り、台湾大学、台湾師範大学、中央大学などで教鞭を執った後、95年4月に台湾大学医学部付属病院で思想的戦闘者としての生涯を閉じた。

先生の謦咳に接した時期に出版された『智的直覚与中国哲学』(71年)、『現象与物自身』(75年)などを読むものの、教室での講義と同じように難解極まりなかった。

一般に「新儒家(現代新儒家)の代表的哲学者として中国語圏の思想界に巨大な影響を与えた」と評価されている。だが深淵な学理はともかくとして、先生の学問の最大の関心は西欧勢力に完膚なきまでに敗北した中国と中国民衆を如何に救うのかという一点にあったに違いない。「学は之、憤の一字」という考えに従うなら、先生は学問の究極は経世済民(せいじ)にありとする伝統的な中国知識人の生き方に忠実だったように思う。

全面的に西欧化することで中国を救おうと唱える胡適らの考えを否定し、中国人の集団文化である儒教思想を再解釈し、中国人の世界観を鍛造し直すことで中国の再生を目指した。敢えて誤解を恐れずに直截に表現するなら、毛沢東の共産党でも?介石の国民党でも、中国は救えない。伝統として民族が伝えてきた儒教を根底から再吟味し、中国文化の徹底した再構築を通してしか中国の再興はない――これが、終生の主張だったよう思う。

当時、中国では毛沢東絶対の文革の暴風が吹き荒び、台湾では?介石の堅固な独裁体制が依然として続いていた。台湾海峡を挟んだ「2つの中国」の一方が「新民主主義」を掲げ人民に依る民主主義を謳えば、一方は「自由中国」を標榜する。だが共に権力の都合で無告の民の心を勝手に玩び、良心を無残にも麻痺させ、ヒトとしての尊厳を踏みにじる全体主義体制では同じだろう。極論するなら中国でも台湾でも、絶対的な政治権力を前にしては「学問の自由」など寝言以下の扱いを余儀なくされた。

であればこそ、「熊十力門下の三英傑」と並び称される牟宗三、唐君毅、徐復観の3先生は、当時は自嘲気味に「文化砂漠」と呼び習わされていたとはいえ「学問の自由」が息づいているイギリスの殖民地である香港で、哲学・思想を軸とする中国文化研究の世界的拠点造りと言う壮大な夢の実現を目指したに違いない。なお、徐先生の思い出は次回に。

だが、ここで疑問が浮かぶ。牟宗三先生が生涯を賭して自らの民族の将来に向かって高らかに恢弘しようとした中国、文化、そしてそれらを合わせた中国文化とは、いったい何を指し示すのか。いま会うことが叶うものなら、こう問い質してみたいと強く思う。《QED》


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