――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港216)

【知道中国 2335回】                       二二・二・念八

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港216)

「だって曽妹も女だろうに」

「相変わらず蒙査査(バカたれ)だな。ところで、もう結婚したか。仔(子ども)はいるか。次に来る時は、きっと女人(カミサン)と仔と一緒だぞ。楽しみにしているからな」

「はいはい。ところで記念写真をどうだい」と声を掛けると、「老了、老了」と口にしながらも、髪を直し、襟元を揃え、上着の裾を叩いて、はいポーズ!

それから、また数年。曽妹の言いつけ通りに家族で景園へ。1980年代の半ばだった。1997年の返還を前に、香港の大改造が始まっていた。

新型の九広鉄道の車両で先ずは大学駅へ。目の前に広がる中文大学は医学部を擁する総合大学に向かって大変化を遂げ、キャンパスにかつての面影は感じられなかった。

大学駅から引き返して沙田駅に降りた。マッチ箱のような駅舎は跡形もない。テント地の屋台で溢れていた墟市も、曽妹と出かけた飲茶レストランも、寒風に吹かれながら李さんと食べた豆腐料理の屋台も、日本から送られたネズミ捕りを受け取りに行った郵便局も、休日にはゴッタ返していた海鮮料理レストラン街も、なにもかもが幻のように消えていた。

それでも、かつては通い慣れた昔通った道である。線路に沿って景園に向かうと、懐かしい龍華酒店の入り口があった。そこを右手に折れ、景園の囲いに沿って小道を進み、角を左に折れると、門柱に景園の文字が。あの頃は毎日開け閉めしていた鉄の扉に手を掛ける。だが、サビついて動かない。なんとかコジ開けて庭に入るが、雑草だらけだ。

ここにザクロの木があって、あっちからジャスミンの香りがしてきて、ここに曽妹が野菜を植えて、ここに犬が蹲っていて、ここの椅子に腰掛けて、ストローを挿した青島?酒を片手に、夜の更けるまで京劇のレコードを聴いて・・・。

家の中を覗き込むと、中は真っ暗だった。なんとか目を凝らして見たが、人の住んでいる気配はない。そこに隣家の人が怪訝そうに顔を出す。そこで曽妹の消息を尋ねた。

「ああ、去年、尼寺で死んだよ。そういえば、以前、日本人留学生が住んでいたなあ」

「そう、その日本人留学生が、私なんです」と、思わず叫んだ。

曽妹の言いつけを守り「女人と仔と一緒に来」たものを、肝心の曽妹はあの世だ。

沙田駅に戻るろうと景園の外に出た。帰りがけにふと後ろを振り返ると、実をいっぱいに稔らせた楊桃の木が目に入った。よく見ると、どれもが濃い黄色だ。熟れすぎている。根元には落ちて腐った実がグズグズに重なっていた。きっと摘む人もいないのだろう。もちろん庭を管理する者もいない。

じつは曽妹は一生独身だったらしい。香港島の金持ちの家で子どもの頃から働き、やがて女中仕事を十分に果たせなくなったので、景園に移った。景園は長い間務めた主人一家が週末の田舎生活を楽しむために所有していた。

景園では空いた部屋に下宿人を住まわせ、賃料を生活費に充てると共に、爪に火を点すようにして蓄え、景園の管理がままならなくなった頃、長年の蓄えを持って尼寺に。尼寺では身体を動かすことが出来る間は寺の雑事を手伝い、やがて尼さんや仲間に看取られ旅立った。

中国の女性の生き方として、大いに考えさせられる生涯ではある。

振り返って見れば“我が香港物語”も回を重ねて今回で216回。初回が2020年8月だから、かれこれ1年半になる。第六劇場に入れあげすぎただろうか。若干の記憶違いはあるかと思うが、稀有な経験――1970年代前半の殖民地末期の香港の雰囲気――を記録しておきたいという初志は果たせたのではないかと、些かの自負を感ずる。さて次回からだが「習近平少年の読書遍歴」を追ってみようかと・・・さて、前途遼遠・五里霧中。《QED》


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