――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港121)

【知道中国 2239回】                       二一・六・仲三

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港121)

当時の鹿鳴春は文字通り隠れた名店で、味にうるさい常連客に合わせて旨い料理を食わせてくれた。その後、有名になり客あしらいがゾンザイになると、味も落ち始める。

1970年代末期、鹿鳴春では“顔”の友人に連れられて出掛けた時のことだった。運ばれてきた料理を口に運んだ途端、「マズイ」と言って彼は皿を突き返した。「別の店へ行こう。有名になり過ぎて厨房が手を抜くことを覚えたらオシマイ」と。

尖沙咀の美麗華酒店(ミラマ・ホテル)の隣の楽宮楼も北京料理の名店ではなかったか。

田中さんに戻る。

店に入り互いに相手を認めると破顔一笑で近づき、互いに手を差し出し固い握手だ。席を譲り合った後、やおら田中さんが口火を切った。

「オレがドアを開けて部屋に飛び込んだ時、部屋の右手の隅の方でアンタがこう身構えていた」「そうそう、あの時、アンタはこんな格好して身構えたっけ」「あの時、部屋のあそこに机があったが・・・」「机の上に××が置いてあって・・・」「アンタの後ろに、2人ほどがいたなあ・・・」など、なにやら判じ物のような会話が続いた。

暫くして、北京からの要人が伙記(ボーイ)に料理を持ってくるよう合図する。

次々に料理が運ばれて来るが「菜譜(メニュー)」に記されていないような珍しい料理もチラホラ。もちろん喉はゴクリである。田中さんが箸を持つ頃合いを見て、箸を動かす。

食べながら、飲みながら、なによりも興味深い話に耳を傾けながら・・・。

緊張の2時間ほどが過ぎ、田中さんは「では返事を待ってます」と言って席を立つ。

ホテルに戻ると「話はだいたい聞き取れただろう。先方の返事によっては意外と早く出発することになるかな」。

そうなると田中徹雄秘書として北京で周恩来に・・・千載一遇の大々々好機。否応なく胸は高鳴り、希望は際限なく広がるばかり。

「ところで」と、宴席冒頭での奇妙な会話の意味を問うと、田中さんは「あれかい、あれは相手がホンモノかどうか、お互いに探りを入れてみたわけさ」。当事者しか知り得ない事実を確認し合うことで、相手の真贋を計ろうとしたわけだ。

じつは北京とのルート開拓は、世評では公明党を通じた田中派が俄然先行していた。口では「へ~へ~ホ~ホ~」などと平常心を装う風の福田は、自らの対応を「アヒルの水かき外交」などと愚にもつかない形容でお茶を濁していた。

だが、当時の美濃部東京都知事などという“悪手”まで使っていたということは、内心では相当に焦りを募らせていたに違いない。おそらく福田を佐藤の亜流と見なし、佐藤亜流の“福田反動政権”の誕生阻止を狙った内外勢力によって、福田ルートは北京中枢に辿り着く前に潰されたのではなかったか。あるいはメディアを含んだ田中支持勢力、その応援団、あるいは佐藤・福田に反対する勢力が北京に対し、福田を「佐藤亜流の米帝追随超反動政権」と印象付けることに力を注いでいたのではないか。所謂「告げ口外交」である。

そう考えると宴席でのやり取りに、なんとなく納得がいく。あるいは北京も次期政権最有力と見られていた福田の真意を確かめたく、ホンモノの福田ルートとの接点を求めた。そこに田中さんの登場となり、北京も香港まで人を派遣した。双方が相手をホンモノと認めたことで、どうやら田中さんを使った福田ルートは北京中枢へ近づいたらしい。

じつは敗戦直後の上海で、田中さんは宣統帝(愛新覚羅溥儀)の弟である溥傑の浩夫人に加え、夫婦の間の2人の娘の1人である嫮生の命を救っている。その折の田中さんの動きを、愛新覚羅浩『流転の王妃の昭和史』(新潮文庫 平成13年)と本岡典子『流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』(中央公論新社 2011年)で簡単に追っておきたい。《QED》


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