――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港77)

【知道中国 2195回】                       二一・二・初九

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港77)

 

ビールは事前に用意して船に乗ったわけではない。酒に肴、それに軽食を売る小舟が行き来しているから、必要になったら声を掛けて呼び寄せる。貧弱な構成のバンドにソロ歌手を乗せた歌艇が近づいてきたら、一曲お願いすればいい。

じつに優雅なクルージングを楽しみながら波よけ突堤に近づくと、船縁を接した小舟が舳先をこちら側に向けて停泊していた。その数は10艘ほどだったような。舳先には若い女性が座っている。彼女の後ろに下がった色鮮やかな幕の間から、同じく色鮮やかに設えられた室内が垣間見える。「花艇」と呼ばれる娼妓船であり、媚びを振り撒く彼女たちに向かって、花艇の前を行き来する小舟に乗った嫖客からヒヤカシの声が掛かる。一帯には、なんとも艶めかしく不可思議な雰囲気の漂う。

よく見ると彼女たちは目をつむっている。同行の年配の友人は麻雀牌を手に、ポツリと「盲妹だよ」。じつは、そこは海上に浮かぶ遊郭だった。

盲妹について、中国政府の招待を受け1955年の4月から5月にかけて中国各地を歩いた火野葦平は中国最初の訪問地だった広州の街を歩きながら、兵士として中国各地を転戦した15年前を思い起こし、「盲目の売春婦だ。逃げないために、客のえりごのみをしないために、房事に専念させるために、楼主が人工的にかかえの女の眼をつぶすのだった」。「(広州近郊の)仏山鎮には盲妹がいる妓楼が軒をならべ、街ではよく盲妹が杖をひいて歩いているのを見た。四、五人一本の杖につながって歩いているのなど、哀れをもよおした」(火野葦平『赤い国の旅人』朝日新聞社 昭和30年)と綴っている。

ということは、花艇にせよ盲妹にせよ香港独特のものではなく、中国南方の水辺に生きてきた蜑民の文化――《生き方》《生きる形》《生きる姿》――の一部と見るべきだろう。

1960年代末期の香港で蜑民社会を調査した可児弘明は『香港の水上居民 ――中国社会の断面』(岩波新書 1970年)で、蜑民を次のように概括した。

「中国の『蜑民』はもともと広州を中心にして、三水、南海、順徳、中山、新会、番禺、東莞など珠江デルタでもっとも知られ、ことに省都である広州には戦前一〇万人以上が集中していた。広州の『蜑民』のわが国におけるイメージは、日が西に沈むと女たちが化粧し、服をととのえ、船にランプをともして歌をうたい、あるいはなまめか嫖客に媚をふりまく娼妓船(花艇)であるが、それは花艇が世俗的な注意をひくまでのことであたって、実際には漁業のほか渡船、水運、物売り、運尿、ゴミ投棄、棺運びの船がその何倍もあったのである。さらに同じ意味でわが国ではよく知られていないが、都市を離れた地方に水上集落をつくる『蜑民』が分布し、広東、広西、福建三省の河川と沿海に、合計一〇〇万をくだらなかったといわれている」。

だから、元来が広東省に属し漁村を主として成り立っていた香港には蜑民が住んでいたわけだが、国共内戦から共産党政権成立前後にかけ、多くの蜑民が大陸から移り住むようになったということだろう。だが、人民共和国だからといって中国から蜑民が消えたわけではない。広東省を流れる珠江とその支流では、現在でも蜑民が船上生活を送っている。

ところで火野は広州のホテルの窓から昔と変わらぬ船上の風景を認め、夜の広州の「暗い川っぷちにたくさんの淫売婦がいた。どの女にもやり手婆がくっついていて、客を引くありさまは昔とすこしも変わらなかった。相当な人数である」と書き留めている。

やはり、この道は毛沢東思想を活学活用学しても簡単には止められそうにないようだ。

閑話休題。

ここで可児の指摘する「棺運びの船」だが、そこに地球大に広がる華僑・華人社会のネットワークのなかで香港が果たしてきた不可思議な役割が浮かび上がってくる。《QED》


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