――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港214)
ある冬の夜だった。小巴の中で糯米鶏の晩飯を終える。小巴が暗闇の大埔道を走り、沙田駅を過ぎ、景園近くに差し掛かった頃、いつものように、やおら「要落(おります)!」と声を掛ける。運転手も心得たもの。九広鉄道の危険防止用に設けられた金網塀の、下禾▲住民のために設けられた開口部に通ずる農道の入り口近くで停車してくれる。
いつもは、ここでカセットの音量をいっぱいに上げ、第六劇場で録音したばかりの演目を聴きながら畑中の道を30メートルほど進み、開口部から入って線路を横切り景園に戻るのだが、その日は一歩き出すと、「音を消せ」の声と共に暗がりから手を引っ張られた。慌ててスイッチを切り目を凝らすと、畑の中に無数の目が光っている。スワッ、なにごとゾ、である。
手を引っ張った人物が暗がりの先にある家を指して、「これからアヘン精製所を急襲するから、協力せよ。音を立てるな」。警察の特殊部隊だった。そう言われれば、窓を閉め切った家の煙突からは煙が絶えることなく、異様な臭いが辺り一面に漂っていた。変だとは思っていたが、物見高い曽妹も、この家については口を噤んでいたっけ。急襲する部隊の尻に追い掛けたが、残念なことに阻止線で引き留められてしまった。
それにしても一般民家に混じってアヘン精製所が稼働していたとは驚きであり、これも香港の現実と改めて知らされたのである。
第六劇場通いも重なってくると、琴胡(京胡)と呼ばれる京劇伴奏用楽器を拉きたい衝動を抑えることが出来なくなってくる。あの甲高い音が耳から闖入し、脳ミソの中を駆け回る快感に捉えられてしまったのだ。いや、淫したとでも表現すべきか。
そこで早速、中国系デパートに勤めている第一日文の学生に頼み、同デパート楽器部で割安で琴胡を手に入れた。教本を買ってきて練習したものの、第六劇場で耳にするような心地よい音が出せるわけがない。「殺鶏音」と呼ぶギー、ギーといった音しか出ない。それでも稽古、稽古。とは言え自己流だから、我ながら時々頭が痛くなる。
第六劇場から戻って夜中の12時頃から1時間ほど。数日が過ぎた頃、稽古を始めると隣室から「ガー!」とか「ギャー!」とかいった絶叫が聞こえてくる。さて不思議なもの。悪い夢でもみているのか。それにしても毎晩とは気の毒に。
隣室の住人は中国人には珍しく毛深い大男で、なんでも映画音楽の仕事をしているとのこと。絶叫した翌朝、顔を合わすと腫れぼったい目をして睡眠不足はアリアリだった。
数日後、隣人が仕事に出て行った後、曽妹がやって来て、「ヤツは、身体はデカいが気が小さい。だから、お前に面と向かって文句が言えない。じつは殺鶏音に悩まされ睡眠不足が重なり、気がオカシクなりそうなんだ。だから、あれは止めろ」
そうか。そうだったのか。申し訳ないことをしたと、その日から彼が在室の間は琴胡の自己流稽古は止めにした次第である。
晩秋になると、朝方に部屋の壁を隔てた向こう側の路地を、数人が太鼓を叩きながら通る。路地を奥に進むと集落の中心の広場に突き当たり、そこに祀られる廟で廟会(えんにち)が始まる知らせだ。廟会の催しの目玉は酬神戯、日本風に言うなら神楽だろうか。
下禾▲の住民がどんな神様を祀っていたのかは気にも掛けなかったが、過ぎ去った1年の無事を感謝し、翌年の幸運を祈る。そのために神様に芝居を奉納するのである。
広場では廟のゴ本尊サマに正対する形で櫓の舞台が組まれ、舞台と廟の間の広場には折り畳み式の大きな丸いテーブルが20台ほど置かれる。もちろんテーブルの上にはごちそうがてんこ盛りに並ぶ。住民参加の一種無礼講の宴会が昼間から始まる。下禾▲に住んでいるわけだから、留学生であろうが廟会参加の資格はリッパにあるはずだ。《QED》