――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港7)

【知道中国 2125回】                       二〇・八・丗一

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港7)

 誰が考えても、4人の子供が見ず知らずの日本人留学生に同情し資金援助を申し出てくれるわけがない。もちろん大スポンサーは子供らの両親である。

 香港での生活が半月ほど過ぎた頃だったと記憶するが、家庭教師のアルバイトを紹介してくれる人が現れた。是非にもお願いします、である。先方から指定された場所に出掛けると、現れたのは中文大学で数学を教えるアメリカ人教授だった。

軍靴風の編み上げ靴、洗いざらしのズボン、肘の部分を皮で補強したカーキ色のセーター、細面に鋭い光を放つ目、短く刈り込んだ髪――質実剛健のオーラを痛感した。これが本物の数学者の佇まいというものだろうか。風貌は哲学者のヴィトゲンシュタインを彷彿とさせる。もっとも、ヴィトゲンシュタインは写真でしか見たことはないが。

先ずは自己紹介だが、ドギマギするばかり。すると教授が少し顎を突き出しながら話し始めた。「あの~ッ、ムスメも、セガレも、英語は話せません。あ~ッ、日本語で~ッ、日本を教える。日本語だけ話す。1週間のウチの何日か一緒に生活して~ッ、子どもらに日本人の生活を教える。イイですか」と。余りにも印象が強烈だっただけに、初対面のシーンは半世紀が過ぎた今になっても、脳みその奥のド真ん中に深く刻まれたままだ。

後で知ったことだが台湾製の日本語学習レコードで独学した日本語というだけに、発音にクセがあり、「セガレ」などと懐かしい響きの日本語だった。世の中には不思議な人がいるものと感動頻りだったが、ともかくも面接は合格だ。これでヒト安心である。

数日後、指定された健康診断書とレントゲン写真を持参して、新界のお宅を訪ねた。

いまは尖沙咀の先端で赤煉瓦の時計塔を残すのみの九龍駅だが、往時は九龍と広州を結ぶ九広鉄路の始発駅であり、英国殖民地盛時の名残が感じられる荘厳な造りだった。ガラーンと広く薄暗い駅構内に入ると、中央に六角形(だったような)の切符売り場があり、駅員は大型ソロバンを横に置いている。座席は軟座(特等)と硬座(普通)に分かれ、切符を売る毎にソロバンの球を弾く。軟座は定員まで珠を数えたら切符販売終了となる。アナログ式販売方法は、素晴らしく簡便な生活の知恵だ。そのステキな曖昧さに感心頻り。

駅のホームは日本のように高くはなく、せいぜいが30センチほど。些か老朽化していたとはいえ濃い緑色の車輌に乗り込むと、日本では見られない広軌だから内部は広く、ゆったりしていた。この先、どれほどお世話になったことか。もっとも大部分は無賃乗車だが。

始発の九龍の次が旺角で、やや走ると獅子山(ライオンロック)トンネルに入る。トンネルを抜けると眺望が開け、大圍を過ぎて大きく右にカーブし、沙田駅に近づく頃には右手に小型トロール船が遊弋する沙田湾が見えてくる。しばらく進むと左手の丘陵が中文大学の広大なキャンパスだ。駅名はズバリ大学。当時、ホームは浪打際にあった。開学数年後で整備途上であり建物は少なく、それが濃い緑のなかに点在し、ステキな雰囲気を醸し出していた。ここが2019年6月からの反逃亡犯条例をめぐる大混乱の際に学生と警備部隊による激しい攻防現場になるとは、悲しくも寂しくもある。時の流れを痛感させられた。

しばらく進んだ右手の海が、端午の節句に行われる龍舟賽(ドラゴンレース)の会場だ。大学の次の大埔墟で下車。この先の沿線事情は、いずれ墓地探訪の際に。

大埔墟の駅を出て少し進むと幹線道路にぶつかる。道路を越えると映画館があり、映画館裏手の公園の一角がバス停だった。目指す林村行きのトラック・バスに乗る。

九広鉄路沿いに進みガードを左にくぐってしばらく走ると、道は大きく左にカーブし山間部に入っていく。一帯には春節飾り用の桃の若木を栽培する農家が多い。蕾の先がほんのり色づきはじめた春節前の時節だったから、辺り一面が淡いピンクに染まっていた。

終点でバスを降り土の坂道を5分ほど上ると、一家が住む林泉別墅が現れる。《QED》


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