――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港86)
クルスが実際に見聞したのか。他人からの伝聞なのか。伝聞なら、クルスに告げた人物が自分が目にした状況をありのままに話したのか。それとも多少(?)の潤色を加えて面白可笑しく、おどろおどろしく伝えたのか。いずれかは不明だが、そのような職務を担当する部署があったということだろう。それにしても監獄における身の毛のよだつように残忍な伝統は、まさか現在に通じていることはないと思うが。
閑話休題
じつは?作工を目にしたのは東華山荘が初めてではなかった。作業中の?作工に初めて出会い話を聞いたのは、何気なく始めた墓地探訪のある日、新界の粉嶺をブラついていた時のことである。留学も1年ほどが過ぎた頃だったろうか。
尖沙咀の先端にある始発駅の九龍駅から広九鉄道に乗る。次の旺角を過ぎて獅子山(ライオンロック)ぶち抜いた獅子山隧道を抜けると、列車は右に大きくカーブして沙田に。大学、大埔墟などの駅を過ぎて粉嶺駅で下車し、ここから畑のなかの小道を進む。
中国人にとって大切な年中行事である清明節に、人々は若草を踏んで墓参りに繰り出す。墓地が集中していた紛嶺は、清明節には香港の繁華街ほどの賑わいをみせる。現在の粉嶺に半世紀昔の面影は全くない。いまは立派な構えの駅ビルを一歩出ると巨大なマンション群が立ち並ぶ大都会だが、当時は畑のなかにチッポケな駅舎がポツンとあるのみ。屋根のないホームには水牛の皮が干されていた。近所に皮鞣し業者が工場を構えていたのだろう。
畑中の道を歩き、軒を列ねる長生店を横目にみながら先に進むと、いくつもの小山が続く規模の大きな墓地群が現われる。裾野から頂きまで林立する墓石で埋め尽くされた風景は、巨大な墓碑と見紛うばかり。なんとも壮観だった。
粉嶺通いを重ねたある日の夕暮れ時だった。いまにも泣きだしそうな空を下を歩いていると、ザク、ザクと規則的な音が、壁のように続く土手の向こうから聞こえてきた。土を掘る音か。夕闇が迫る墓地で・・・さて、なんだろう。まさか墓の盗掘なんぞ、あろうはずもなかろうに。
恐いもの見たさである。緩やかな勾配の土手を駆け上り、音のする方に目を向ける。50歳台と思われる男が1人、鍬を振るいながら黙々と墓を掘っている。恐ろし気な雰囲気が漂う。だが、どうやら好奇心が恐怖心を上回ったようだ。近づいて、男の作業を見せてもらうことにした。
男が振り下ろした鍬の先には、腐りかけた棺の蓋がみえた。蓋の上の土をきれいに取り除くと、男はやおら棺の蓋をこじ開ける。次に蓋を脇に置くと、なにやら中から黒いものを取りだした。棺の中で腐った布だろうか。いや、ところどころ白いのだ。骨、そう、それは、最初に間近に出会った中国人の崩れた遺体であり、骨だった。
完全に白骨化していないだけに、なんとも生々しい。足元から体全体にゾクゾクと寒気が立ちのぼってくるのが判る。慄然とは、こういうことか。
これが?作工の作業を目にした最初だった。それから40年ほどが過ぎて、香港島の大きな長生店で香港の葬送文化に関するインタビューを行った際、経営者から?作工が携わる一連の作業を撮影した動画を見せてもらったが、改めて文化の違い――《生き方》は《死の送り方》に通ずるはず――を思い知らされたものである。
ここで再び東華義荘に戻りたい。
墓を左右に見て急な下り勾配のコンクリート舗装の小道を足元に気を付けながら先に進むと、やがて竹や樹木に覆われた蔦の絡まる石作りのアーチが現れる。正式名称の「東華医院義荘」の6文字を仰ぎ見ながらのアーチをくぐると、緩やかな下り坂の左右に住まいが軒を連ねる。?作工の住居だろう。さらに50メートルほど進むと、2番目のアーチが現れる。鉄扉を開けて進む。10万平方フィートの敷地を持った東華義荘であった。《QED》