――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港15)

【知道中国 2133回】                       二〇・九・仲六

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港15)

 4人兄弟が相手の家庭教師と第一日文での代講・・・取らぬ狸の皮算用は十分に承知しているが、両方のバイト代を合わせれば一定の収入が確保できそうだ。切り詰めた生活に努めれば、なんとか留学期間も伸ばせるだろう。先の見通しが立ったようでもあり、そこで改めて中国語を学ぼうと思い立った。

理想は個人教授ではあるが、やはりネックとなるのは高い授業料である。貧乏留学生にとっては贅沢が過ぎる。だが、だからといって映画館での学習は無意味に近いことは経験済みだ。香港までやって来て独学はないだろう。そこで、飛び降りることもないだろうが、先ずは清水の舞台に立った心算で、個人教授でやってみようということに。

人間というヤツはどうしようもなく怠け者であり、一生懸命に勉強しようなどと殊勝な気持ちを持ったところで、それは一時のこと。“崇高な決意”は程なく雲散霧消して、元の木阿弥となるのが関の山。抑え難い怠け心を封じ込めることが出来るような“鋼の意志”なんぞを、凡人が持ち合わせているわけがない。怠け者の尻を引っ叩く最良の方法は、やはりカネしかない。カネさえ出せば、なんとか払った分は取り戻そうとするはずだ。欲の皮が突っ張っているから、しょせん人間はセコイのである。

 幸運にも理想に近い先生が見つかった。北京生まれの北京育ちで京片子(べらんめえ口調で耳に心地よく響く北京弁)を話す。北京大学で中国文学を専攻した50歳前後の女性で、そのうえ授業料が思ったほど高くはない。まさに願ったり叶ったり、だった。

早速、指定された番号に電話すると、歯切れのいい中国語が返ってきた。「時間があるなら、いま直ぐにお出でなさい。アナタの程度を確かめてテキストを考えたいので」。そこで「我就去(すぐ行きます)!」と電話を切って、台所にいた大家のSさん夫人に指定された場所への道順を訊ねた。すると地図を書いてくれながら、「『我就去!』でも意味は伝わるけど、やはり『我就来!』の方がいいと思いますよ」と。

 そこでハタと気づかされた。日本式中国語でも通じればいいってものではない。ここは香港であり、住民の圧倒的多数は広東人である。広東人も中国人だろう。香港が中国人の社会であり、その香港と言う中国人社会にドップリと浸かろうとしているわけだから、願ってもない絶好の機会を逃がしてなるものか――こう思い至ったところで、日本で身につけた中国語の知識は取り敢えずはキレイサッパリと忘れ、一から学び直そうと考えた。

 善は急げ、である。バスを乗り継いで、指定された住所になんとか辿り着く。

近くには赤煉瓦が美しい名門女学校があり、周囲を高い木々に囲まれた落着いた雰囲気の高級住宅が並ぶ。雑踏と人いきれの香港にも、こんなにも緑豊かで閑静な住宅地があったのだろうかと驚いたが、時に轟音が耳をツンザク。見上げると、着陸直前の態勢に入った旅客機が啓徳空港(当時の香港国際空港)の滑走路に向かって超低空で通り過ぎて行く。もちろん、風向き具合によっては離陸直後のこともある。

大きな石造りの門があり、高い塀で囲まれた広い青々とした庭の先に2階建てのレトロな雰囲気の洒落た邸宅があった。門番に来意を告げると通してくれたのだが、彼の背後の門番小屋を見て驚いた。もちろん普通の犬小屋よりは大型だが、まるで見た目は犬小屋。だが窓もあれば、入口の板戸にはカギも付いている。チラッと目に入った小屋の中には布団も畳んであれば、食器もあった。ここが彼の職場兼住宅らしい。職住超近接と聞こえは良いが、まさに劣悪な居住環境と表現するしかない。

だが、“固定の住宅”を持っているだけでもヨシとしなければならなかったはず。それというのも当時、繁華街の夜の路地裏で歩道脇に設えた折り畳みベッドを塒としていた例にお目に掛かることがあったからだ。改めて香港社会の厳しい現実を知ったのである。《QED》


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