――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港190)

【知道中国 2308回】                      二一・十二・仲九

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港190)

学校維持のための基金設立準備を狙ったと思われる「籌募基金公演国劇」ではあったが、やはり資金調達は当初の目論み通りとはならなかったらしい。その後、期待を込めて何回か第六劇場を覗いてみたが、依然としてガラーンとしたまま。春秋戯劇学校再建計画は幻に終わったようだ。やはり肩透かし、いや糠喜び。

だが考えてみれば第六劇場における京劇に携わった人々――粉菊花校長、いつも校長の隣にいた李国祥、検場(くろこ)の孫さん、周文偉、張和錚、陳如泉、徐慶春、穆成桐の教師たち(たしか徐、穆の2人が「武戯=立ち回り」の教師だった)、それに董雲?、王登麟、王金聲、姜振亭、王大為、恵英華、董雲?、袁明珠、恵天賜、孟景海、孟景芬、盧淑芬、康玉釧、王雪燕、李恵珠、恵英萍、陸慶平。加えるに郭美玉、銭月生、陳玉麟、楊耀培、侯耀忠――彼らの演技を知ることがなかったら、ここまで京劇にのめり込まなかっただろうし、こんなにも長期に、自由気楽に、なににもまして身勝手の儘に、しかも顔パスで京劇に接することは出来なかったはず。であればこそ、半世紀余り遅れはしたものの、改めて春秋戯劇学校の関係者全員に深く感謝したい。

“最期の公演”となった「籌募基金公演国劇」の舞台に立った董雲?らと立たなかった袁明珠や王雪燕――両者の間に、どのような齟齬があったのか。おそらく粉菊花校長や春秋戯劇学校に対する思い入れや考えに違いがあったように思える。

それにしても彼らは、どのような経緯から春秋戯劇学校に飛び込み、芸の苦海を彷徨い、粉菊花校長以下の師匠連の厳しい指導を受けようとしたのか。かてて加えて広東語社会である香港において、粤劇(広東オペラ)ではなく敢えて京劇で身を立てようとした動機はなんだったのか。

春秋戯劇学校における習芸生活を思わせる香港映画「七小福」(1988年)、陳凱歌の名を世界に広めた「さらば、我が愛/覇王別妃」(1993年)、旅回りの京劇一座の悲哀を描く中国映画「人情鬼」が共通して描いているが、京劇役者を目指す子どもたちの家庭環境は一般的には、とてもじゃないが“円満”とは言い難い。貧しい家庭環境を背負った彼らは、どのような思いで習芸に励んだのか。芸を身につけた先に、なにを願っていたのか。

一方、粉菊花校長を筆頭とする師匠たち――その大部分は生粋の広東人ではなく、上海や北京から香港に流れ着いたに違いない――は、いったい、どのような成算があって広東人社会の香港で京劇学校を開校したのか。教える相手は広東語で育ったに違いない子どもたちである。この子どもたちの口跡を、京劇の台詞回しや歌が唱えるまでに作り替えるには並大抵な苦労ではなかったと想像するが、そうまでして京劇役者に仕立て上げようとした意図はなんだったのか。

「科班」と呼ばれていた往時の北京や上海の京劇学校がそうであったように、一人前に育て上げた役者を京劇の一座に供給するエンタメ・ビジネスを考えていたのか。それにしては香港で京劇に馴染む人口は余りにも少ない。事実、広東人が大部分を占める友人は、京劇には全くと言っていいほどの興味を示さなかった。筆者の第六劇場通いを「蒙査査(マトモじゃないヨ。バカバカしい)」と冷ややかに見ていたほどだ。

あるいは殖民地時代の香港が東南アジアからアメリカに広がる華人社会の首都としての役割を果たしていたと考えるなら、世界各地の華人社会におけるエンタメ業界への人材提供に活路を見出そうとしていたのかもしれない。

春秋戯劇学校もまた香港が殖民地であったがゆえに開校され、役者を育て、公演を続け、やがて活動が立ち行かなくなったと考えるなら、同校の教師に生徒、さらに第六劇場に通った戯迷連も、殖民地・香港を物語る一齣の幕間劇を演じたことになろうか。《QED》


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