――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港180)

【知道中国 2298回】                      二一・十一・仲五

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港180)

玄宗皇帝は叔母である太平公主を倒し唐朝最長の44年もの長期に亘って皇帝の位に在った。一連の権力奪取劇に功労があったことで重用されることとなった高力士は、玄宗皇帝の治世を裏から支え続けた――こう、歴史書は綴る。いわば高力士は、それまでの王朝では見られなかった宦官による政治介入の嚆矢となるだろう。であるなら実際の高力士は「貴妃酔酒」に登場する狂言回しのヤワな宦官ではなく、権謀術数に長けた冷血漢に違いない。

だが、芝居に親しむ庶民の大方は文字を知らないし、だいいち史書などはトンと無縁である。そこで庶民は芝居から歴史を知ることになる。庶民にとっての歴史は、当然のように実際に繰り広げられ、正史などの史書に記された歴史とは異なってくるわけだ。

「貴妃酔酒」で唱われる歌詞の原型は、清朝の乾隆年間(1735~96年)に公刊された『太古伝宗』のうちの『酔楊妃』に収められているが、芝居としては康煕年間最末年の1722年に編まれたとされる。

ということは、最初に唐代の楊貴妃、玄宗皇帝、安禄山、高力士をめぐる史実があり、それが正史などの歴史書に書き記され、長い年月を経た末に戯作者や役者の手で面白おかしく脚色されて芝居に編まれ、清朝末年と思われる頃に「春情頓熾」「忍俊不禁」「放浪形骸」「作種種酔態」「及求歓猥褻状」の演技がタップリと盛り込まれる芝居に変えられた。さらに6、70年を経た共産党政権誕生後、梅蘭芳の手で「改編と整理を重ね、不健康な部分を取り除き、比較的整った古典歌舞劇に仕上げ」(『梅蘭芳演出劇本選』)たことになる。

史実から芝居として舞台で演じられるまで、じつに安禄山の乱から千数百年の隔たりがあるが、この間、楊貴妃、玄宗皇帝、安禄山、高力士の間柄は史実を離れ、後世の人々の想像の中で絡まり合いながら千変万化し、興味深い筋運びの芝居に変容する。

中華人民共和国が建国される半年ほど前のことだ。北京(当時は北平)を制圧した人民解放軍は1945年3月25日に「人民解放軍北平軍事管制委員会文化接管委員会」の名義で55本の「有毒旧劇」の公演禁止命令を出した。

そこでは禁演措置を受けた55本が「第一、神仙・妖怪・迷信を提唱する演目」「第二、淫乱思想を提唱する演目」「第三、民族の矜持を失わせ異民族の侵略を提唱する演目」「第四、封建道徳を褒め上げる演目」「第五、封建圧政を称える演目」「第六、一種の荒唐無稽な、あるいは定まった劇本のない演目」の6つに分類されているが、「貴妃酔酒」は「第二、淫乱思想を提唱する演目」に指定されている。因みに、これまで見てきた「奇怨報」(「烏盆記」)は「第一」に、「大劈棺」は「貴妃酔酒」と同じ「第二」に、「四郎探母」と「鉄公鶏」は「第三」に分類されている。

このように1945年3月25日に「有毒旧劇」に指定された「貴妃酔酒」ではあったが、やがて梅蘭芳の手で「長年を掛けて改編と整理を重ね、不健康な部分を取り除き、比較的整った古典歌舞劇に仕上げ」られ、朝鮮戦争の前線で兵士を、あるいは工場などの生産現場で労働者を慰問するために、さらには海外で“新中国”のイメージアップを狙って公演されるようになったのである。

ここで些か穿った見方をするなら、共産党政権としては全国区レベルの名優であり、海外でも著名な京劇役者の梅蘭芳を政権の広告塔として使いたい。一方の梅としては十八番の「貴妃酔酒」を手放すわけにはいかない。かくて両者の思惑が一致して、「貴妃酔酒」が本来的に秘めている「色情を暗示する演出」が削除され、「長年を掛けて改編と整理を重ね、不健康な部分を取り除き、比較的整った古典歌舞劇に仕上げ」られた。いわば現在の「貴妃酔酒」は共産党政権と京劇名優の間の妥協の結果――今風の表現に従えば「双贏(ウィンウィン)関係」の産物――と見なすことができるのではなかろうか。《QED》


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