――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港175)
最後の最後になっても決断のつかぬ楊雄を前に、石秀は「ならば動かぬ証拠を」と取り出したのが潘巧雲の「香蓮襖」だった。石秀に斬り殺された際に裴如海が身に着けていた潘巧雲愛用の匂い立つ袷だと言うから、動かぬ証拠。とはいえ、やはり穏やかではない。
「これでも決心がつかないか!」と兄貴分の楊雄を急き立てる。こうなったら楊雄も腹を括るしかないのだが、やはり逡巡するばかり。そこで石秀は「兄者が殺せないならば、いっそ弟が斬り捨てるまで」と、哀願する潘巧雲に刀を振り下ろした。
「かくなるうえは我らが2人、何処に身をば置くべきや」と楊。「我らが2人、いざ梁へ奔ろうぞ」と石。「して梁とは」「知れたことなり梁山のこと」「いざ」「いざ。兄者、さて後悔は」「大丈夫(おとこ)に後悔あるでなし」「後悔なんぞ捨てたなら、いざや奔ろう梁山へ」と、石秀と楊雄が共に舞台右手奥の「下場門」に駆け込んだところで、幕となる。
第六劇場では「翠屏山」も数多く見たが、なかでも潘巧雲と裴如海の濡れ場、口封じのために潘巧雲が石秀に迫る色仕掛けの手練手管、土壇場で尻を捲った潘巧雲が楊雄に向かって機関銃のように繰り出す悪罵の数々――「性淫蕩」と性格づけられているだけあって、潘巧雲の一挙手一投足は舞台に隠微な雰囲気を漂わせる。まさに「毒婦」「淫婦」と呼ぶに相応しい所業である。それにしても、かの国の「毒婦」「淫婦」は滅法気が強く明るい。
ここまでは存分に面白いが、「狡弁」と形容される潘巧雲が早口でまくし立てる台詞には完全にお手上げ。だが席を並べる戯迷連はニヤニヤ、ゲラゲラの拍手喝采。相当に際どい「俗語」「隠語」「罵語」の類いが連発されているに違いない。
ところで主人公が潘巧雲と名乗るわけだが、「雲」を「雲雨の情」の「雲」と見立てるなら、それが「巧」と言うのだから、もうこれだけで潘巧雲の役どころは分かろうというもの。京劇の登場人物は巧妙に名付けられているものだ、と感心するばかり。
毛沢東史観からすれば、梁山泊の漢(おとこ)たちは「官逼民反」「造反有理」――理不尽な官に立ち向かう英雄であるはず。その英雄が、不倫を重ねた妻に居直られタジタジ。もう1人の英雄は生臭坊主のみならず、如何なる理由があれ他人の妻までを斬り殺してしまうというのだから、やはり共産党政権としては「翠屏山」の公演は認められないはずだ。
そんなエロ・グロ・ナンセンス満載の「翠屏山」を自由に観劇できた――これを裏返せば制限なく公演できた――第六劇場は、いまとなっては奇跡の空間だったような気がする。“殖民地における文化的治外法権”と呼ぶのは、やはり大袈裟に過ぎるだろうか。
共産党の政治と京劇の関係について、「貴妃酔酒」を一例に考えてみたい。
この演目は建国前後からその死までの間、共産党政権の広告塔としての役割を果たした梅蘭芳(1894~1961年)の十八番の演目として余りにも有名であり、彼の海外公演の際には例外なく演じられた。1956(昭和31)年の梅による最後の日本公演でも同じで、やはり看板の演目。因みに、この公演の前年は保守合同と左右両派社会党が合同し、いわゆる「55年体制」が発足し、4年後は第1次安保闘争の年になる。
当時、日中間に正式の国交はなかった。にもかかわらず超大型の京劇団の日本公演である。素朴な訪日公演と考えるのはオメデタが過ぎる。混乱する日本社会に焦点を合わせ、「日中友好」ムードの醸成を狙って共産党政権が仕組んだ文化工作の一環ということだろう。当時、共産党政権は日本の政界、経済界、学界、マスコミ、芸能界と各界各層における安保反対運動を様々な形で支援していたのである。
さて「貴妃酔酒」に戻る。1980年代以降、多くの京劇団の日本公演が見られたが、梅蘭芳の息子である梅葆玖は必ず「貴妃酔酒」を演じていた。だから「貴妃酔酒」は共産党政権の“御用達演目”でもあろうが、建国以前は褒められた内容ではなかった。《QED》