――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港184)
当然と言えばそれまでだが、玉三郎の楊貴妃では、それまで抱いてきた京劇の旦のイメージに合わない。玉三郎の楊貴妃は美しくないばかりか、不思議なことに貧相に見えてしまうのである。
梅葆玖は父親の梅蘭芳が使っていたに違いない豪華絢爛な舞台衣装や髪飾りを用意したうえに、化粧は彼が北京から帯同した超一流職人の手になったはず。だが玉三郎が扮した楊貴妃は煌びやかな衣装に身を包んだデクノボーにしか見えない。やはり楊貴妃と言う役柄は、玉三郎には残念ながら似合わないもののようだ。
やはり、歌舞伎役者として鍛えられた玉三郎の五体では「貴妃酔酒」は表現できないのだろう。ここで妄想を重ねるなら、歌舞伎が確立した表現法で表すことの出来る世界と、京劇のそれとは決定的に違うのではないか。歌舞伎の形と京劇の形は根本的に異なっている。すでに形が違う以上、その形が生み出す世界が違って当たり前だろう。
極論だろうが、玉三郎の楊貴妃では、彼本来の美しさが漂わせる“たおやかさ”が消されてしまう。梅葆玖が歌舞伎の女形の扮しても、同じように絵にはならないはずだ。
同じ《おやま》であろうが、歌舞伎(女形)と京劇(旦)では芸風は全く違う――ここら辺りに、《生きる形》としての文化の違いを感じてしまうのである。
随分と遠回りをしたが、本題に引き返し、第六劇場の舞台に“夢幻の世界”を描いてくれた春秋戯劇学校の役者たちの思い出を綴ってみたい。おそらく彼らの舞台を記憶している当時の観客は、いまや香港では皆無に近いだろうが・・・。これからの2,3回は、いままで以上に“戯迷度”が過ぎるのだが、お許し願いたい。
そこで話を進める前に初歩的な基礎知識を。
かつて京劇は歌舞伎と同じように役者は全て男だった。20世紀初頭の一時期、宝塚歌劇団のような女性だけの京劇一座が上海に出現し人気を博したことがあるが、やはりキワモノの誹りを免れず、程なく公演を止めてしまった。
共産党が革命思想宣伝に京劇を軸とする芝居を多用したことはすでに述べたところだが、建国を機に男役は男の役者が、女役は女の役者が演ずるようになった。とはいえ梅蘭芳など建国前に修業を積んだ役者は建国後も依然として女役で舞台に立った。建国前に修業した役者の高齢化に加え文革を経たことで、その後は女性役は女性役者が演ずる。
ところが、この原則は春秋戯劇学校には当てはまらなかった。女性ながら男役を演じた役者もチラホラ。それがまた男の役者より上手いのだから、じつにコマッタものだった。
京劇では全ての役柄は大きく生(おとこ)、旦(おやま)、?(あくがた)、丑(どうけ)に分けられ、それぞれが役どころによって、たとえば生では老生(たちやく)、武生(ぶしょう)、小生(わかしゅう)と、旦(おやま)では華やかな役柄の花旦、貞淑な妻や未亡人の青衣、男勝りの武芸を誇る武旦や刀馬旦、ばあさんの老旦など。
京劇と言えば直ちに連想されるハデな隈取りを施した?(花臉とも呼ぶ)は台詞も歌も胴間声。だから女性役者はいないようだが、じつは春秋戯劇学校では?を演ずる女性役者がいた。この役柄必須の胴間声を少し変調させ、彼女は時に老旦を演ずることもあったが、演技は味わい深かった。狂言回しを演ずる丑は原則として男が演じたが、ヤリ手ババアなどは女性の女丑が演じていたのである。
ここで、ちょうど京劇が面白く感じ始めた頃に当たる1972年12月20日、いつもの第六劇場とは違って歴史を誇る香港皇都大戯院での公演を一例に、春秋戯劇学校の役者たちを紹介したい。振り返ってみれば、この時期、春秋戯劇学校は尤も充実した陣容を抱えていたように思う。この頃を境に、人気者が1人、2人と第六劇場から去って行った。《QED》