――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港189)

【知道中国 2307回】                      二一・十二・仲六

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港189)

その日は、釣瓶落としの秋の夕暮れのように唐突にやってきた。1974年の半ばではなかったか。前の日も、戯迷連と舞台評を交わしながら第六劇場を後にした・・・というのに。

いつものように録音カセットを手に客家料理屋の従業員専用出入口から飛び込み、食事する客の脇をすり抜け第六劇場に向かったが、どこかいつもと違う。切符売り場の灯りは消え、いつも挨拶を交わす切符売りのオッサンの姿も見えない。慌てて飛び込んだ客席に人影は疎ら。ガラーンとした客席の前方に薄ぼんやりと舞台が浮かぶ。

いつもなら「ジャンジャンジャンジャンジャン、テケテケテケテケテケテケ、クワーンテイクワーンテイ」と伴奏用の打楽器を総動員して小屋全体を揺さぶるように開場鑼をかき鳴らす場面の面々も、誰一人として見当たらない。もちろん舞台には幕開け前の時間を使って芸のおさらいをする生徒がいるわけでもない。シーンとしているだけ。

客席最前列に進むと、居並ぶ顔馴染みの戯迷連も腰を深々と落として沈黙するのみ。いつも指定席に座ってはみたものの、どうにも落ち着かない。やがて誰からとなく席を離れ、1人、また1人と、戯迷連はカセットを抱いて寂しげに立ち去る。

第六劇場に独り取り残されたようだが、こんな機会はまたとない。そこで舞台に上がってみた。一面に敷かれていた絨毯が取り払われた舞台は、幅20cm、厚さ3mほどの厚板が敷き詰められている横8m、奥行き3mほどのなんの変哲もない板の間に過ぎなかった。絨毯が敷かれていたとは言え、おそらく激しい立ち回りを長年に亘って支えてきたからだろう。板の両端の角は削れて丸みを帯び、表面はささくれ立ち、素の色に戻った板と板の間には隙間が目立つ。真っ平らだと思っていた舞台だが、全体が微妙に波打っている。隙間に目を落とすと、下は真っ暗――まさに奈落と呼ぶに相応しい暗闇が広がっていた。

ついでだからと後台(がくや)を覗いてみる。もぬけのカラ。ガラーンとしていて何もない。昨日まで衣装やら小道具を収めた戯箱が所狭しと置かれ、春秋戯劇学校の生徒たちがおしゃべりをしながら化粧し、衣装を身に纏い、生徒から役者へと変身する“関門”であったはずの後台も、こうなると品物が取り払われたガラクタ小屋としか言いようはない。

ふと足下に目を落とすと、床に棄てられた白地に「學」と赤い字で書かれた30cm四方の厚紙が目に入った。当時の香港では自動車学校が完備していたわけではなく、一般道路で練習して免許取得を目指した。その際、この紙を後部のバンパーに括り付けて走ったもの。はたして春秋戯劇学校の生徒の誰かが運転免許を取ろうとしていたのだろうか。この紙を記念――さて、なんの記念だろうか――に持ち帰ったことはもちろんだった。

薄暗い後台から舞台に戻り、客のいない客席に向かって立った。昨夜までの熱気がまるでウソのようであり、辺り一面に寒々とした空気が漂う。この瞬間、どうやら“我が夢の城”は崩れてしまったようだ。やはり芝居とは客がいて役者がいて、絶え間ない騒音と熱気と狂騒とが入り交じってこそ成り立つはず。芝居を生かも殺すも、あの雑踏だ。

それからしばらく過ぎた1974年の秋口だったと記憶するが、戯迷連からの風の便りに春秋戯劇学校の活動再開の噂が伝わってきた。

はたせるかな、春秋戯劇学校が香港大会堂音楽庁の大ホールを使って「籌募基金公演国劇」を掲げて公演を打ったのである。開演時間は1975年1月8日午後8時。もちろん行かないわけはない。期待に胸を膨らませ、押っ取り刀で駆けつけた。

この日の演目は「冀州城」「宋十回」「斬黄袍」「青石山」の4本。董雲?、王登麟(いつしか「霖」は見栄えのする「麟」に変わっていた)、王金聲、姜振亭、王大為、恵英華は舞台に立ったが、共に第六劇場の舞台に躍動した袁明珠、恵天賜、孟景海、孟景芬、盧淑芬、康玉釧、王雪燕、李恵珠、恵英萍、陸慶平の名前は戯単に見当たらなかった。《QED》


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