――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港128)
ここで2244回に挙げておいた華資の分類に従って、それぞれの代表例をあげておくことにする。殖民地としての香港の摩訶不思議な一面が透けてみえるはずだ。
先ず「Ⅰ)殖民地化に伴って成長した伝統華資」では、何東(ヘンリー・ホートン)一族を筆頭に挙げることに異存はないだろう。
香港が殖民地化して10数年が過ぎると、香港が秘めた経済的可能性に目を付けたヨーロッパ各地の血気盛んな若者が香港にやって来た。中にはイギリス軍人もいたが、彼らは香港に定着し、中国人女性と結婚する。かくて19世紀も半ばを過ぎる頃には、欧亜混血児が誕生するのであった。
彼らは家の外では香港政庁付属の学校に入り英語で教育を受け、家庭では主に母親から広東語による儒教道徳教育を授かる。なかには父親の本国に渡り西洋上流社会に馴染んで文化を身に付ける者も現れた。全く新しい二重の文化的背景を持つ若者は香港に戻り、身に付けた西欧と中国の両文化を生かし「四大洋行」などで買弁と呼ばれる代理商人を務める一方で、自らの商権を拡大しながら、政庁による殖民地行政の一角を担うのであった。
その典型がイギリス人を父に、宝安県(現在の深圳特区宝安区)生まれの女性を母に持つ何東(1862~1962年)である。彼の資産形成の根幹は不動産ビジネスで、香港島と九龍の中心部で手にした広大な物件を原資に株式投資、東南アジア一帯の製糖ビジネスなどに乗り出す一方、広東澳門輪船公司、錦興紡織、黄埔船塢、電車公司、渣甸輪船公司、中印航運公司などを起業し、香港火険や広東保険公司で経営顧問を務めている。
不動産ビジネスが産み出した莫大な資産を他に投資するという香港における資産形成の手法は、やはり何東から始まったと考えられる。
財力は当然のように政治力を呼び寄せる。彼は西欧人上流階級しか住むことを許されなかった「半山区」と呼ばれる香港島の中腹の高級住宅地に豪壮な邸宅を構えた。政財界のみならず香港社会に隠然たる影響力を発揮し、さながらに皇帝の如く振る舞ったのである。
『DYNASTY 大王朝』(R・S・エレガント TBSブリタニカ 1981年)は香港で築いた莫大な財産を背景に、香港や中国はもちろん世界各国の中枢に張り巡らせた人脈を駆使し巨大ビジネスを展開する一族を描いた小説だが、何東一族の姿を彷彿とさせるに十分だ。
元国民党軍の将軍で中日戦争当時に秦皇島要塞司令官を務めた何世礼は何東の息子。マカオに飛び出しカジノ・ビジネスを隆盛に導いた「カジノ王」で知られたスタンレー・ホー(1921~2020年)は、いわば何東一族の異端児でもある。因みにスタンレー・ホーの体内にはイギリス、ペルシャ、ユダヤ、中国の血が流れているといわれるだけに、長身で容貌は西欧人。あるいは何東がそうであるように、スタンレー・ホーもまた殖民地としての香港の歴史を体現しているとも言えるだろう。
何東一族に匹敵する羅一族を起こしたのが、香港に近い広東省番禺生まれの羅文錦(1893~1959年)である。若くしてロンドンに留学し、1915年に実施された試験はイギリスでトップ。イギリス弁護士資格を取得した最初の香港出身者である。香港に戻った後、何東一族の許で法律事務を担当し、何東の長女と結婚。何東一族と血縁関係で結ばれる。
一族には弁護士が多いが、天星小輪、香港電車、中華電力、香港・九龍貨倉、香港商業広播電台、香港電視など殖民地時代の中核企業の経営に参画。一族の羅徳丞(ロー・タクシン/1935年生まれ)も弁護士で、一族は伝統的に殖民地行政に深く関わっていた。
さらにアヘン売買で財を成し不動産ビジネスに転じた利希慎(1879~1928年)が起こした利一族、西洋薬販売から不動産ビジネスに進出した張祝珊(1882~1936年)を祖とする張一族、ハワイ華僑出身の郭一族など・・・一族の歩みに香港の歴史が宿るのだ。《QED》