――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港12)
当初から香港は英語で「Crown Colonies」と表記されるイギリスの直轄植民地であり、イギリス女王の代理である総督は女王に加え、外務大臣、連邦事務大臣の管轄下で香港に関する全権を掌握し行使する。最高権力者とはいえ、総督の権限は「香港限定」である。
総督の下に直属する布政司は総督の首席政策顧問とでも言うべき立場にある一方、殖民地政府の行政のトップであり、同時に公務員の最高位になる。財政に関する全権を持つ財政司、行政管理に当たる律政司、司法を担当する首席按察司がいる。行政機構として政府に当たる行政局、立法機構として議会に当たる立法局があるが、両者とも総督の諮問機関の域を超えることは許されず、ましてや選挙で選ばれていたわけではないから厳密な意味で民主主義制度が行われていたわけではない。
独立した裁判制度はあり、一応は司法の独立は担保されていた。だが殖民地であればこそ当然のことながら、法律の最終解釈権は香港の最高法院(最高裁判所)ではなく宗主国イギリスの枢密院司法委員会が握っていた。
香港社会の治安維持を第一とする駐屯軍総司令官は、イギリス国防省が任命した。
経済は太古洋行(スワイヤー)、怡和洋行(ジャーデン・マセソン)、和記洋行(ボイド)などのイギリス系大企業を頂点に、買弁商人として大成功し強固な経済的基盤を築いた何東(ヘンリー・ホートン)に代表される買弁系一族、その下に日中戦争から国共内戦前後にかけて混乱する中国から逃れてきた浙江財閥や潮州財閥などが位置していた。香港を代表する企業家の李嘉誠にしても、当時はホンコン・フラワーで稼ぎまくった資産を元手に転じた成長著しい不動産開発業者でしかなかったと言える。
銀行では香港上海匯豊銀行(HSBC)と香港渣打(スタンダード・チャータード)のイギリス系両銀行が紙幣発行権を持ち、中小の地場銀行を圧倒していた。
大学は英語で教育する香港大学(1911年創立)と中国語による教育を目指した中文大学(1963年創立)の2校のみ。共に「校監」として総督を最高責任者に戴いているものの、香港大学の影響力は新興・中文大学を遥かに圧倒していた。
こう当時を振り返って見ると、1970年代初期の香港社会は、基本的には魯迅が「再談香港」で描いた1927年当時の香港から大きく変化していたわけではなかった。
総督に率いられた殖民地政府(政庁)を頂点にイギリス系大企業や香港大学などを「西洋のご主人サマ」とするなら、中国系の政庁幹部や企業家が「若干のオベンチャラ使いの『高等華人』とお先棒担ぎの奴隷のような同胞の一群」となり、「それ以外の凡てはひたすら苦しみに耐えている『現地人』」と捉えることが出来る。
「苦労に耐えられる者は西洋殖民地で死に、耐えられない者は深い山へと逃げ込む。苗や瑶は我われの先輩なのだ」と綴る魯迅だが、どうやら些かの誤解があるように思える。香港の住民は、漢民族支配を逃れて新たな生活空間を僻遠の地に求めた「苗や瑶」のような少数民族とは違う。彼らは少数民族のように「深い山へと逃げ込む」ことはぜず、生活空間を求めて海外――同じくイギリス殖民地のカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、あるいは東南アジア――に移住し、生活基盤を築いた後に香港にUターンする。
彼らにとって香港は活力の源泉であり、一攫千金の夢を叶える可能性を秘めた“金の卵を産む鶏”だった。彼らは「支配されながら支配する」という手法を駆使しながら、時には密かに「西洋のご主人サマ」を支配することもあった。
やがて1997年である。中国政府は返還に由って居抜きの形で殖民地を強引に譲り受ける。
だが習近平政権は同じ漢民族だけに「西洋のご主人サマ」ほどに甘くはないから、峻厳な支配体制を企てる。いまや若者も「深い山へと逃げ込む」ように消極的ではない。《QED》