――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港9)
スクリーンの中の田中新兵衛が等身大の三島だったのか。三島が田中に乗り移ったのか。
生前の三島が「役者は何回も死を演ずることが出来るから羨ましい」と呟いたと記した文章を読んだ記憶があるが、田中を演じている三島にとっては、どこまでが幻だったのか。
おそらく大方の日本人なら、スクリーンに映る田中に扮した三島の一挙手一投足に、『人斬り』の撮影前後から11月25日までの三島の軌跡を思い描いたはずだ。
だが会場に集まった香港の若者の大部分は、おそらく三島演ずる田中の振る舞いに戸惑うしかなかっただろう。その戸惑いに文化――《生き方》《生きる形》《生きる姿》――に対する彼我の違いがあるように思う。やはり判らないものは判らないとするしかない。「異文化理解」など、所詮は理解し合えないことを認め合うしかなさそうだ。
ここで、当時、日常的に接していた香港の新聞事情を振り返って置きたい。
漢字紙をみると、『星島日報』、『明報』、『工商日報』、『成報』、『快報』、『天天日報』、『華僑日報』、『香港商報』などは地場資本で、論調は反共・嫌共か中立系。敢えて色分けするなら『明報』はインテリ向けで、『香港商報』は労働者や個人経営者向けだったように思う。『大公報』、『文匯報』は「毛沢東思想万歳、万歳、万々歳!」の共産党系で、これに対し『香港時報』は国民党系で当然ながら徹底した反共・憎共路線を貫いていた。
英字紙を見ると最も権威があり確かな中国情報で知られたのが1903年創業の英字紙『South China Morning Post』で、当時はJardine(怡和洋行)やHSBC(匯豊銀行)などイギリス系資本が経営に当たっていた。現在までの資本構成の変遷は、共産党が示すメディア支配の執拗なまでの姿を物語る。この問題については、いずれ言及したいと思う。他に『星島日報』系に属す『The Star』と『Hong Kong Standard』があった。
現在でもそうだが、香港においては新聞は主に歩道の一角で雑誌やら新聞を並べている屋台で購入する。習慣的に自宅で朝飯を食べることの少ない香港では、道端で買った新聞を読みながら飲茶の品々を食べることが一般的だった。レストランで朝食を済ませると読み終わった新聞の皺を伸ばし丁寧に畳み、再び新聞屋台へ持って行く。
いましがた読み終わった新聞を定価の3分の1程度で引き取ってくれる。昼近くになると、屋台のオヤジは売れ残った新聞に買い取った新聞を2紙ほどを組み合わせ、格安で売り出す。だからしばらく待っていれば、1紙分ほどの料金で2、3紙の新聞が読める。かくして最初の購読者も、2番目も、割安で新聞が手に入る。加えて屋台のオヤジも仕入れのロスを極力減らすことが出来るから、じつに不思議で合理的な商法だ。「互利互恵(ワーク・シェアリング)」を目指す生活の知恵に驚くばかり。
当時、「香港情報」といえばニセ情報、インチキ情報の代名詞であり、新聞とは名ばかりで、日本で喩えるなら『内外タイムス』や『東京スポーツ』に近いものもあった。国民党系紙から「毛沢東死す」とか「毛沢東暗殺か」といった“衝撃的なニュース”が流れようが、一方で共産党系紙が「文革大勝利」「毛沢東思想で今年は空前の大豊作」などと報じようが、市井の人々は眉にツバし、冷ややかに記事を追っていた。言い換えるならフェイク・ニュースの類をフェイク・ニュースとして大いに楽しんでいたと思う。
だが1972年2月のニクソン米大統領訪中のニュースだけは違っていた。香港の将来を左右し、自らの人生に大きく関わりかねないだけに、誰もが真剣に新聞を読み、テレビに釘付けになった。あの時、固い反共の信念の持主も、中国人であることに誇りを持ったらしい。毛沢東がニクソンを自らの書斎に迎え入れたという奇跡の一瞬から米中雪解けムードを直感し、殖民地の将来に一筋の曙光を見出したのだろう。文革がどのような経緯を辿るのか不安は消えないものの、香港の街に安堵のムードが漂ったように感じられた。《QED》