――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港51)

【知道中国 2169回】                      二〇・十二・仲二

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港51)

 

香港を取り巻く米・英・中3国の動きを、もう少し振り返ってみておきたい。それというのも香港の運命が香港住民の意志とは関係なく定められていった経緯、いいかえるなら香港住民には自らの運命を自らの意志で決定することができないという厳然たる事実――あるいは悲哀――を直視しておく必要があるからだ。

この1842年の南京条約によって香港が背負うことになった動かしがたい運命は、じつは現在もなお続いている。2020年6月に定められた香港版国家安全維持法(中華人民共和国特別行政区国家安全維持法)が、まさにそうである。であればこそ日付が1997年6月30日から7月1日に代わる時点を境に、香港の宗主国がイギリスから中華人民共和国へと替わったということだろう。

1968年から72年まで在香港日本国総領事を務めた岡田晃は自著の『香港 ―過去・現在・将来―』(岩波新書 1985年)で、在任当初の状況を次のように振り返った。

――1968年末に中国側のアメリカに対する軟化姿勢を直感したと記した後、「(1969年1月に)ニクソン大統領は急テンポで動き出す。大統領就任演説を行うや否や、フランスにドゴール大統領を訪問する。引き続き、グアム・ドクトリンを発表して、アジアでのオーバー・コミットメントの整理をすると言ったかと思うと、急遽、パキスタンにヤヒヤ・カーン大統領、ルーマニアにチャウシェスク大統領を訪問する。『やっぱり何かあるな』、『アメリカの対中政策は変わりつつあるな』との確信を強める」。だが、如何せん「東京にはこういった匂いを続々と電報で知らせたが、相手にもされなかった」――

如何にも憤懣遣る方ナシといった雰囲気だが、矢張り問題は出先の直感を現実の外交政策に生かせない、いや生かそうとはしない外務省中枢にありそうだ。その後、この手の“失策”が起きないように体質改善はなされたのだろうか。大いに疑問だ。

岡田が記すところのニクソン大統領の動きに連動したのが、あるいはイギリスのエドワード・ヒース首相(保守党:1970年6月~74年3月)ではなかったか。

彼は1974年の総選挙で敗北し首相の座を去った後も中国政府首脳とは密接な個人的関係を築いていたと言われ、中国側はイギリス政府より彼の見解に信を置いていたフシが見られる。1974年に野党党首として香港を訪れた彼は1997年に香港を返還することを明言しているが、当時の彼と中国政府首脳の関係からして、両国間で香港返還に関する根回しが基本的に進んでいたということだろう。

当時を思い起こせば、中国では四人組の天下であり、批林批孔運動の真っ盛りであった。とはいうものの毛沢東は江靑批判、四人組離れ、そして「安定団結」へと政治路線を微妙に軌道修正し始めてもいた。

このように今から振り返ると、激闘であれ暗闘であれ、北京中枢における権力を巡っての動きを凝視しているだけでは、どうやら中国の動きそのものも見誤りかねない、いや見誤る可能性が大であることを教えてくれている。国際情勢は、ことに中国のような国では、“鵜の目鷹の視線”を掠めて権謀術策が展開されていることを肝に銘じておくべきだろう。誤解を恐れずに形容するなら、長崎だけが江戸の仇を討つ場所ではないのである。

閑話休題。

イギリスにとっての香港を考える際のキーマンがエドワード・ヒースだとすれば、香港にとっての香港を考える時に忘れることができないのが第25代香港総督のクロフォード・マレー・マクレホース(漢字表記で麦理浩)である。1971年11月の就任以後、4回再任され、1982年5月まで総督を務めた。彼が治めた10年半ほどが「香港の黄金時代」(Frank Welsh『A History of HONGKONG』)だったとの評価は動かし難いようだ。《QED》


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