――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習47)
大躍進の苦境から脱し落ち着きを取り戻した安堵感が感じられる『動脳筋爺爺』、毛沢東の怨念と復讐心が行間に渦を巻いているような『石荘児童団』、ソ連社会帝国主義の堕落と米帝国主義の残虐ぶりを糾弾し、中国共産党の正しさを切々と諄々と熱く説く『在戦争与和平問題上的両条路線』――63年当時の中国を象徴する3冊に続き、当時の日中関係の実相が浮かび上がってくる『日語会話』(周浩如編 商務印書館)を紹介するのも一興か。
かつて中国は誰もが気軽に観光旅行に出かけられるような国ではなかった。共産党政権の政治基準にメデタクも合格し有難くゴ招待を受けた日中友好人士だけが先ず香港に向かった後、中華人民共和国との数少ない接点の1つであった羅湖で橋を渡り深?に入ることで、初めて足を踏み入れることを許された“聖域”だったのだ。
『日語会話』は、そんな時代の中国旅行を題材に「日本語の口頭通訳工作者と学習者に日本語会話の規範を示し、同時に一般の日本語学習者と教授者の参考に供」されたわけだ。
会話本らしく、「(1)深?の橋の袂で」の「失礼ですが、日本××代表団の皆さんでしようか?」との出迎えの場面から始まり、入国のための諸手続き、北京までの汽車旅行、北京の散策、万里の長城や武漢長江大橋などの見学を経て北京で香港行きの列車に乗り込む場面を繋ぎながら、会話が進められる。
なにはともあれ、当時の日中関係を象徴するような会話のいくつかを紹介しきたい。
「(中国国内の至る所で)スローガンを拝見し、こうしてお話をうかがつていますと、なんですか新しい社会に来たのだという感じで、身が引締まるようですわ。“共産主義は楽園だ”――希望に満ちた、とても明るい感じですわ!〔中略〕忘れないうちにノートしていかないと」と口にしたのは「婦人外賓」、つまり日本人女性である
。
男の「外賓」は列車の中で第三世界からの訪問客を眼にし、「アジア・アフリカの方たちのようですね。こんど北京に参りましてから、人民中国の成立が、民族独立のために闘つている、特にアジア・アフリカの各国人民にとつて、どのように大きな意味を持つているかということを痛切に感じさせられました」。
極め付きは、天安門広場における次のやり取りだろう。
「日本の方達の新安保条約反対を支持する百万人を越えた集会もここで催されたのです」と「通訳」が解説すると、直ちに「婦人外賓」が「ええ、聞きました。中国の皆さんの力強い声援で、私達どれだけ勇気づけられたか知れませんわ。王さん、天安門は、もう新中国の象徴なばかりでなく、今では私達日本人の、いえ、平和を愛する世界中の人々の心の中のシンボルになっていますよ」と、底知れないまでに底抜けの天安門賛歌である。
無邪気が過ぎる。世界には裏の裏の、またその裏の・・・裏は無限に続くモノ。
『日語会話』出版から9年が過ぎた72年2月の北京である。日米安保条約破棄を逼る周恩来に対しニクソンは、「我々の軍隊が日本から撤退すべきだという総理(周恩来)の立場を知っています。〔中略〕私はそれに同意しません。私は在日米軍を撤退させません。【なぜならば、日本を抑制することが太平洋の平和にとって利益になると私は信じるからです。】私たちが話し合ってきた全ての状況が、我が軍の駐留を求めています」(『ニクソン訪中機密会談録』(毛里和子・毛里興三郎訳 名古屋大学出版会 2016年)と応じた。つまり『日語会話』で強く反対する日米安保だが、周恩来は米中会談では「反対」を引っ込める。
流血の天安門事件発生は、ニクソン訪中から17年後の89年である。米中接近によって経済力を手に政権基盤を強化した共産党は民主化要求を力で押し潰し、強権化に突き進む。
「天安門は、もう新中国の象徴なばかりでなく、今では私達日本人の、いえ、平和を愛する世界中の人々の心の中のシンボルになっていますよ」とは、時の流れは不可解だ。《QED》