――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習45)
ここで注目したいのが、動脳筋爺爺だけではなく、小無知クンも小問号チャンも、毛沢東の「も」の字も、共産党の「き」の字も話題にしていないこと。と言うことは、どうやら64年当時の少年少女は、「毛沢東の恩恵」ばかりか、「共産党の栄光の歴史」なんぞにも関係なく日々を送っていたことになる。
じつは64年には、10月に初の国産原爆実験に成功すると共に58年に毛沢東が強行した大躍進の後遺症を脱し、「国民経済に比較的調和の取れた発展が出現し」(『中華人民共和国実録 第二巻(下)』吉林人民出版社 1994年)、劉少奇の現実路線が定着しつつあった。つまり目立つのは劉少奇の功績ばかり。だが、それが面白くなかったはずの毛沢東であればこそ、2月29日、訪中した金日成に対し、「(このままでは中国は)修正主義に変質してしまう。思想的準備をしなければ」と語ったはずだ。意味深で不気味な発言ではある。
『動脳筋爺爺』とは全く反対に、文革の先駆けと位置づけてもよさそうなのが『石荘児童団』(上海人民出版社)である。
58年にはじまった大躍進政策は惨憺たる結末を迎え、3年続きの自然災害が追い討ちを掛け、3000万から4000万人が餓死した。この危機的情況を打破し「V字回復」を果たした最大の功労者が劉少奇だった。毛沢東に代わって国家主席・国防委主席に就いたことで、劉少奇は毛沢東の頭を押さえ、形の上では中国のトップに立ったことになる。つまり『石荘児童団』が出版された当時、劉が大いに讃えられてしかるべき時代だったはず。
だが、劉少奇の風下に立たされたままで黙って引き下がる毛ではない。得意の“搦め手”による劉少奇追い落とし策に手をつけ始めた。《毛沢東の正しさ》を子供に植え付け、毛沢東を《絶対無謬の神》と思い込ませ、しかるべき政治決戦に備え、虎視眈々と一剣を磨く。冷酷非情で用意周到の毛沢東の面目躍如である。
無邪気であるがゆえに喜々として冷血・残酷にもなりうる子どもたちを操って反劉少奇の大混乱を起こせば、こっちのモノ――『石荘児童団』から、こんな底意が読み取れる。
小栄クンはちびっ子だが肝っ玉が据わっている。日本鬼子(ぐん)が駐屯する東港を流れる平洋に飛び込み、今日も魚獲りだ。水に潜ったかと思えば川面に浮かんでは遊んでいた。ふと岸辺を眺めると、兄ちゃんの小順たちが槍を手にして玉蜀黍畑の中に消えてゆく。日本兵偵察に出掛けるのだ。小栄クンは慌てて岸に上がって、兄ちゃんたちを追いかける。
やっと追いついてしばらく行くと、川の方からジャブン、ポトンと音がする。川辺の葦の間から伺うと、日本兵が川に入り測量をしている。どうやら、この川に橋を架けるための準備をしているらしい。この光景を目に小栄クンは子ども心にも、「チクショウ、日本鬼子に橋を架けられたら、おいらたちの村は全滅だ」。そこで「子どもたちの目は日本鬼子に釘付けとなり、目からは復仇の怒りの炎がメラメラと燃え上がる」のであった。
小栄クンは小順兄ちゃんの命令を受け、村の民兵隊に報告に走る。
相変わらず偵察を怠らない子どもたちの目に飛び込んできたのは、メガネの「ちびでデブの日本軍隊長」。歩きながら部下を叱り付ける姿は、「まるで生きた凶暴な猪」だった。すると川上からスイカを満載した小船が下ってきた。船にはおじいさんと子どもが。
炎天下である。川の中で測量していた日本兵だって喉が渇く。そこで小船に近づいてスイカを勝手に取り上げ、喉をゴクリと鳴らしながら、冷えたスイカをムシャムシャ。と、ピューン、ピューンと銃声だ。スイカを手に慌てて逃げ惑う日本兵。デブの隊長は船尾でブルブル。そこで小栄クンは、デブ隊長の腹を目掛けて頭突きを喰らわした。《QED》
【訂正:前回、「上海を拠点に文革を取り仕切る」と記した柯慶施は文革前の65年4月には急病死。よって柯は削除。文革中「劉少奇一派が謀殺」との噂が流れるが、真相不明。】