――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習2)
香港では第六劇場通いには遠く及ばないものの、新刊書のみならず古本も含め書店周りは定例化していた。当時は文革最盛時であり、中国系の書店は当然のように文革礼賛本で溢れていた。中国で出版された書籍は安価だったこともあり、書店を覗いて目に付いた書籍は文革関連の理論書は当然のこと、眼病予防のための『常見眼病的防治』や養豚娘の踊りを解説する『独舞 養猪姑娘』まで、無差別の“爆買い”であった。
その一方、古本屋では、暇に任せて――そう、24時間が暇だった――店頭に堆く積まれた古本を相手に文革以前の出版物を漁りもした。
自慢ではないが物持ちがいい方だから、香港留学時に手に入れた書籍は半世紀ほど、ほぼ積読状態のままだ。これまでも、そのうちの面白そうなモノは紹介してきたが、拙稿(「英国殖民地だった頃・・・香港での日々」)を閉じるに当たって一念発起し、積読状態を解き、それらを中国の政治・社会状況の変化に沿って読んでみようと思い立った。
それというのも、こうした作業を重ねることで、当時の共産党政権が将来に向かってどのような人材を育てようとしたのか。言い換えるなら共産党独裁体制を維持するために、次代を担う人材にどのような「脳筋(のうみそ)」を持たせようとしていたのか――こんな点が透けて見えてくるような気がしたからである。
時を重ねるに従って習近平の振る舞いに毛沢東の影が色濃く感じられるとは、一般に指摘されているところ。だが、なぜ、そうなのか。なぜ、そう見られてしまうのか。それは習近平の個人的資質と経歴に発する行動様式に起因するものなのか。それとも建国後に生まれ、毛沢東を「百戦百勝」の神と崇めるよう徹底して教育された結果なのか。かりにそうなら、毛沢東式思想教育の最高傑作が習近平に他ならないことになるはずだ。
以下、時の流れに沿って香港で手に入れた資料を読み進むことにする。
時系列的には1950年代半ばから、毛沢東の死と四人組が逮捕された1976年前後までの四半世紀前後になろうか。もちろん、これから扱う書籍の全てを幼児から青年にかけての習近平が手にしたなどという確信はない。だが彼を当該世代の代表と見なし、敢えて「習近平少年の読書遍歴」と題しておいた。
本題に入る前に、参考までに習近平の幼少期をザッと追っておく必要があるだろう。
1953年6月1日、習近平は橋橋と安安の2人の姉と弟・遠平の4人兄弟の長男として北京で生まれている。娘が2人続いた後の待望の習家の跡継ぎ――習家の少爺(わかだんな)であり、共産党幹部の習仲勲の公子(お坊チャマ)――の誕生だったわけだから、一族一家が大歓迎しただろうことは十分に想像出来る。
当時、父親は中共中央宣伝部長兼政務院文教委員会副主任を務め、党と政府の思想宣伝工作の実質的責任者を務めていた。であればこそ自宅には秘書、警護官、執事、調理員、乳母、門衛などが配置されていたというから、やはり「紅色貴族」に相応しい優雅な生活を送っていた。
党と政府の要職にあった父親の習仲勲はもちろん、母親の斉心もまた馬列(マルクス・レーニン)学院を経て党の理論学習機関である中央党校に在籍し多忙を極めていた。ことに習近平が6歳になった1959年、習仲勲は国務院副総理兼国務院秘書長に就任する一方、斉心の中央党校勤務が続き帰宅できるのは1週間1回だけ。当然のように習近平の兄弟姉妹は、幼稚園に預けられることになる。
当時の幼稚園や託児所を見ると、朝から夕方まで預かる「日託」と親元を離れて月曜日から土曜日までを集団で過ごす「全託」の2つのシステムに分かれていた。両親が共産党幹部として働いていた習家の子どもたちは、もちろん全託であったとされる。《QED》