――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習79)
『常見眼病的防治』には具体的治療法だけではなく、上海第二医学院付属新華医院における文革が、次のように記されている。
文革が始まるや、医院にも毛沢東思想を掲げる労働者の宣伝工作隊が乗り込んだ。そして、「百戦百勝、戦って負けなしの毛沢東思想によって医療関係者の思想改造を手助けし、彼らの立つべき位置を労働者・農民・兵士の側に近づけた」と記されている。
だが、毛沢東が説くように「革命とはおしとやかなものではない」のだ。文革派の武装組織が病院に乗り込み、西欧式科学的医療を進める医者たちを「ブルジョワ医療路線」「劉少奇路線」と脅し、吊るし上げた挙げ句の果てに病院から追放する。その過程で上海第二医学院附属新華医院革命委員会を組織し、病院経営の実権を握った、と考えるべきだろう。いわば文革派が病院経営の全権を暴力で乗っ取ったはずだ。
かくして、「我が病院の眼科関係者は、労働者と軍の宣伝隊の指導と積極的な支持を受け」、医者、労働者医師、革命的医療関係者が日常的にみられる眼病の診断・治療・予防の便に供するために、「一九七○年六月」に「上海第二医学院附属新華医院革命委員会」が『常見眼病的防治』を編集したというわけだ。
それにしても、なぜ彼らは、こうまでして政治に拘るのか。眼病治療を分かり易く解説する『常見眼病的防治』のような本にまで政治的主張を持ち込むのか。ここら辺りに中国人の行動様式の秘密の一端が潜んでいるような気がする。そこで、彼らの思考回路のカラクリを解き明かそうと拙稿の回を重ねることになるわけだが、切っても切っても金太郎アメに似て、読んでも読んでも毛沢東思想だから、率直なところウンザリではある。とはいえ、この程度で音を上げたら“敵の術中”に嵌まるだけ。「どこまで続く泥濘ぞ」(「討匪行」)ではあるが、その「泥濘」の中に問題解決の糸口があると確信する・・・のだが。
『充分発揮筆杆子的戦闘作用』は政治闘争における筆杆子(ペン)の役割を説く。もちろん上海人民出版社の出版である。
「槍杆子(銃)から政権が生まれる」とは毛沢東革命における鉄則中の大原則だが、『充分発揮筆杆子的戦闘作用』に目を通せば、毛沢東は筆杆子以上に槍杆子を重視していたことが判るはず。たしかに槍杆子から撃ち出される鉛の弾丸は人を容易く殺すことができるが、筆杆子から飛び出す言論という銃弾もまた、確実であるばかりか効率的に大量に人を殺す。いや、ジリジリと時間をかけるだけに、こちらの方が残忍・卑劣と言える。
文革時、「資本主義の道を歩む悔い改めない実権派」「中国のフルシチョフ」と非難された劉少奇の命を奪ったのは鉛の銃弾ではなく、次から次へと手を変え品を変え延々と繰り返された筆杆子による攻撃ではなかったか。筆杆子は精神を撃ち抜く。
『充分発揮筆杆子的戦闘作用』の冒頭を飾るのは中国を代表する革命的メディアとして文革時に猛威を振るった2紙1誌――共産党機関紙『人民日報』、解放軍機関紙『解放軍報』、最高理論雑誌『紅旗』――の編集部連名による「メディア戦線の大革命を徹底的に推し進めよ」と題した論文、いや過激なアジテーションなのである。
先ず「新聞、印刷物、放送、通信社を含むメディア事業は、悉く階級闘争の道具である」と切り出し、「その宣伝力は民衆の思想感情と政治の方向に影響を与え続ける。プロレタリア階級とブルジョワ階級の間のメディアという陣地の指導権をめぐっての激越な闘争は、プロレタリア階級とブルジョワ階級の間の、思想戦線における生死を賭けた闘いである」と続けた後、メディアに関する劉少奇の過去の発言を例示しながら、それらが毛沢東に反対し、資本主義復活を企む陰謀の一環であることを激しく糾弾してみせる。
いまや劉少奇に向かって、筆杆子は一斉に‟悪罵”という銃弾を浴びせ掛けるのであった。《QED》