――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習3)
習仲勲夫妻が4人のわが子の幼児教育を託したのは北京北海幼児園で、前身は北平国民党社会局託児所である。その名称からして国民党幹部の子女用の幼児教育施設であり、最高の設備が整っていたと考えて強ち的外れではないだろう。
じつは人民解放軍は北京を制圧するや、党と軍の幹部子女専門の実験幼稚園への転用を考え、49年3月に北平国民党社会局託児所を接収している。用意周到と言ったところだ。
長かった内戦で荒れるに任せていた園内は、陳毅、賀龍などの幹部の強力な支援で面目は一新され、子供たちの衛生健康面は重視され、帰国することなく現地に留め置かれた日本人医師が採用されていたとのこと。文字通り至れり尽くせり、である。党・軍幹部御用達の“太子党”を養成する専門機関の誕生であった。
園舎の設計には、当時の中国を代表した建築家の梁思成(1901年、東京生まれ。父は革命家で清末民国初年の中国を代表するジャーナリスト・梁啓超)が当たっている。
共産党東北局を指導していた李富春が木材、セメント、ペンキなどの建設資材を用意し、内蒙古の共産党指導者のウランフが何百頭かの牛や羊を提供し、共産党華東局幹部の陳毅と劉暁が内部施設と日用生活用品を整え、共産党西南局幹部の賀龍と大連市党委員会が園児用の衣料を調達し、それらの品々は鉄道部長の命令によって無料で北京に運送された。
しかも建国目前の、おそらく猫の手も借りたいほどに超多忙で重要な業務が山積していた時期であるにもかかわらず、である。党と政府の力の入れようは尋常ではないことが一目瞭然だろう。
北海幼児園に預けられたのは、劉少奇、陳雲、王稼祥、薄一波など共産党最高幹部の子女たち。薄一波の息子で2012年春、権力闘争に敗北し重慶市トップの座から滑り落ちた薄熙来も、ここで幼児期を過ごしている。だから薄と習は幼児園の同窓で、薄が4年先輩と言うことになる。因みに年齢の関係で毛沢東の子供は預けられてはいなかった。
この幼児園で「紅色貴族」のための幼児教育を受けた子供たちは、上記の最高幹部に加え、省や市の幹部、さらには北京市共産党委員会幹部の子女など。総勢で400人ほどだったという。
彼らの教育に当たったのは、当時の最高学府で知られた輔仁大学、燕京大学、清華大学の卒業生に加え、北平国民党社会局託児所で国民党幹部子女教育を担当した教員達。加えて医薬品は人民解放軍の生みの親で解放軍総司令の朱徳によって軍の衛生部門から提供され、外国の賓客からの贈り物も園児用に廻され、伝染病対策は厳格を極めたというから、共産党が全力を傾けて北海幼児園の経営に当たっていた姿が浮かび上がってくる。
それゆえに5月1日のメーデー、10月1日の国慶節などには、外国からの多くの賓客が参観に訪れている。対外宣伝の格好の場になったというわけだ。時に周恩来夫妻も夕刻に訪れ、園の内外、遊戯室から寝室まで参観し、「ここの子供たちは幸せそのものだ。凡ての子供たちを、こういう幼稚園で学ばせたい」と語ったとか。
夏、多くの幹部子女と同じように、習家の子供たちもまた父親たちに従って北京の東北方に位置する避暑地の北戴河に滞在する。幹部のために用意された別荘で海辺の陽光を浴びながら、一般庶民には想像すらできない優雅な時を過ごしていた。
最高幹部の居住区である北京の中南海で年末年始や、時には週末に幹部のために、当時の中国を代表する役者による京劇公演が催された。おそらく習近平少年も両親に連れられ鑑賞したと思われる。その時、習少年の背後に習仲勲の力――役者と京劇界の首根っ子は、この少年の父親に押さえられている――を見ていたなら、役者たちは習少年を「少爺(わか)」「公子(おぼっちゃま)」と呼んで「拍馬屁(ゴマスリ)」した・・・のでは。《QED》