――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習112)
振り返れば1971年はパリコミューンが成立から100年になる記念すべき年ではあるから、『巴黎公社』が出版されたとしても、決して不思議ではない。とはいえ、なぜか唐突感は免れない。
「歴史知識読物」は内外の歴史を毛沢東思想で自由自在、と言うことは得手勝手・勝手気儘で傲岸不遜、変幻自在で自己中心に解釈したもの。1972年以降には、「青年自学叢書」、「《学点歷史》叢書」、「哲学歴史知識読物」など同種の叢書が続々と出版されている。詳しくは1972年以後に扱うこととしたい。
ブルガリア共産党指導者で1935年にコミンテルン書記長(~43年)に就任し、第2次世界大戦後にブルガリアに戻り首相となったゲオルギ・ディミトロフ(1882~1949年)は、亡命先のベルリンで1933年に発生したドイツ国会議事堂放火事件関与容疑で逮捕されるが、裁判で検察を徹底論破したことから無罪釈放されている。
法廷におけるゲオルギ・ディミトロフの裁判官との応酬を詳細に追った『控訴法西斯 季米特洛夫在莱比錫審訊中両個発言』(人民出版社)の出版も、1971年であった。
ディミトロフが法廷から強制退去され、永遠に発言権を剥奪された際の発言――「コミンテルンの指導の下で前に向かって突き進む共産革命の車輪は、恐怖の手段を用いようが、苦役や死刑の判決を下そうが、断固として押し止めることは出来ない。その車輪は時を超えて、共産主義の徹底した勝利の時まで回り続ける!」――が、『控訴法西斯 季米特洛夫在莱比錫審訊中両個発言』の最後に掲げられている。
この本で毛沢東に言及しているのは1か所だけ。毛沢東の『三個月的総結』からの「内外の反動派がどのように横暴を極めようとも、我々は彼らに断固として勝利出来る」との短い引用に続き、「法廷におけるディミトロフの雄々しい弁舌が、この真理を証明している」と記している。「この真理」が「内外の反動派がどのように横暴を極めようとも、我々は彼らに断固として勝利出来る」を指していることはもちろんだ。
じつは同書の初版は毛沢東が大躍進政策をブチ上げた直後の1958年12月で、手許に持っているのは「1971年9月北京第1次出版」である。やや因縁めくが、林彪がモンゴルの草原に屍を晒したと同じ1971年9月の出版になる。
いったい、どの勢力が、あるいは誰が、1971年の時点でディミトロフのドイツ法廷での詳細な証言の出版に踏み切ったのか。なにやら深い意図が潜んでいるとも思うが、それは考え過ぎだろうか。それにしても、文革とディミトロフが、どこで、どう交錯するのか皆目判らない。そこがまた、文革に狂喜乱舞した彼らの思考回路の不可思議多ところだろう。
1971年には、かの超風見鶏知識人の代表である郭沫若の『李白与杜甫』(人民文学出版社)も出版されている。
政治信条はハチャメチャ、立ち居振る舞いはデタラメ、自己弁護の塊で知識に対する誠実さは欠片も感じられない――これぞ郭沫若と思うが、『李白与杜甫』を一読して痛感するのは、狂気(あるいは凶器)に近い博覧強記振りだ。分かり易く表現するなら「知の巨人」といったところか。もっとも文革当時の奇妙な振る舞いを思い起こすなら、やはり「知の虚人」の称号が相応しいような気もする・・・が。
郭沫若は古今の数多の書籍を自由自在に引用し、李白と杜甫が激動の人生を生けるが如くに描き、それぞれの作品を多面的に読み解く。その試みには舌を巻き頭を下げるしかないものの、李白は政治的栄達に失敗した落魄詩人、杜甫は農民叛乱を「盗賊」と糾弾・侮蔑する階級意識の持ち主と断罪して否定するに至っては、やはり大いなる疑問符を付けざるを得ない。『李白与杜甫』に、郭沫若得意の文化的幇間芸の極致を見る思いだ。《QED》