――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(1)田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

【知道中国 1964回】                       一九・十・初二

――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(1)

田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

 田川大吉郎(明治2=1869年~昭和22=1947年)は長崎の産。明治22(1889)に東京専門学校卒業後、新聞記者に。『郵便報知』『都新聞』から東京市助役へ。その後、司法省参事官を経て政界進出を果たす。1934(昭和9年)、それまで廃娼運動を展開していた廃娼連盟は、1934(昭和9)年に内務省が示した公娼廃止の動き呼応し新たに国民純潔同盟として発足する。同同盟は精神的・倫理的要素の強い国民純潔運動を推し進め、戦時体制下の総動員運動の一環に組み込まれ、廃娼運動を越えて純潔報国運動へと転化した。田川は同同盟で理事長を務めている。

 「日本が、立憲政治の國であることは、日本の國家、國民の誇りである、日本の國民は、常住に、この政治の精神、目的の普及、徹底を圖らなければなりません」と、格調高く「序」は始まる。

 「新に日本に加へられた島」の台湾、「新たに日本に添へられた半島」の朝鮮――両地の「同胞」は「この類の政治の支配を喜ばず、或はこれを忌み嫌ふ傾向がある」。だが「從來の日本國民、即ち内地の同胞は、この類の政治の効用、利益を説明して、臺灣島民、朝鮮半島民の理解を求め、得心を促すことに、骨を折るべき」だ。それこそが「立憲國民としての、日本國民の名譽であり、面目にも叶ひ、誇りと、特權とを完ふする所以の道」であるはずだ。

 だが現状を仔細に観察すると、「これに正反對をして居るから、誠に不思議です」。

 これまで朝鮮や台湾に対しては「内鮮一致」「一視同仁」の精神で臨んでいたと理解していたが、この田川の主張に依れば、どうもそうではないらしい。ともかくも田川の論旨を追ってみたい。

 「朝鮮の同胞は、參政權を要求してゐます」。「臺灣の島民は、臺灣の議會を要求してゐます」。「然るの臺灣に在らるゝ内地の同胞は、この要求に贊成せられず、寧ろ、陰に、陽に、これを妨害し、これを阻止せんとして居られます」。立憲政治を誇る「内地同胞諸君が、これを希はないということは、何たる矛盾、何たる油斷、何たる不注意。何たる不親切、何たる不理解の事でありませう」。ここに「日本の議會政治の振はない所以であると、沁々、悲しく、情けなく、感じました」というのだ。

 かくて田川は台湾在住の「内地人諸君」に向かって、「實に臺灣島民に取り、必死の問題である」ところの議会開設問題に対する「諸君の不注意、無頓着を責めざるを得ませんでした」と悲憤慷慨するばかりか、一歩進めて「臺灣の同胞に對する陳謝」の意を表す。

 ここで田川はアメリカ在住の日本人に話頭を転じ、「我が同胞の片割れが、太平洋の彼方、米國の一隅に、差別の待遇を與へられて居るのを、不當、非理、不人情だと、烈しく論難」しながら、台湾の人々に対しては「差別の待遇を與へ」たままだ。「臺灣に在られる内地同胞の」、「臺灣人に對せらる、態度は」、「私の目には、所謂差別的待遇」と映ってしまう。

 このようなダブルスタンダードを不問に付したままで、「日本は世界に對して何と言ひます、米國に對して何と言ひます」。在米日本人を差別する「彼等が惡いのなら、我等も惡い」。

 かくて田川は、「この重要な問題が、臺灣に在る、朝鮮にも在る、臺灣に在らるゝ内地の同胞は、これを考へて下さらねばなりません」と。

 「序」は「大正十四年三月三十日、普通選擧法、漸く成立したとの新聞記事を讀みつつ」と結ばれる。

これから本文を読み進むが、「臺灣の諸子から、いろいろ不愉快な話を聞かされ、堪へ難い恥辱と苦痛を感じた」と、最初から“物騒”な調子だけに、興味津々である。《QED》


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