――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(33)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
ドイツの権益が山東半島に集中していることは既に知られたところだが、「山東半島何ぞ獨逸野心の全部ならんや」。じつは三国干渉に加わる以前、「(ドイツは)既に碩學『リヒトホーヘン』を派して、廣く支那内地を踏破せしめ其の後、各部專門家に命じて、支那全省悉く調査探究せしむる所があつた。即ち準備は成つて唯機會を待つのみとなつて居た」。
そこに降って涌いたのが辛亥革命であり、誕生直後の中華民国政府は財政難から、山東鉄道の延伸を条件として財政援助を求めた。得たり賢し、である。ドイツは借款要求に応じたのだ。それというのも「單に青島濟南間のみ」の山東鉄道では、「其の勢力の及ぶ所極めて限定せらるれる」がためであったからだ。その深謀遠慮な強欲さには頭が下がる。
かくして1913年12月31日に「獨支間の調印を見た」ことで、「一は山東鐵道と京漢鐵道を最短距離に結び、以て河南、直隷、山西、陝西等所謂支那中原の地の物資を吸収し、他は、漢荘(叙州)に於て、甘肅蘭州より、中部支那を�斷して揚子江に出でんとする、海蘭鐵道と交叉し、以て其の利�を青島に奪はんとするの宿望は達せられたのであつた」。つまり「單に青島濟南間のみ」の山東鉄道では山東省の利権しか手に入らない。だから事前に「支那全省悉く調査探究せし」めた上で一気に勝負に打って出て、先行するイギリス、ロシアやフランスの鼻を明かそうとしたことになる。これが国際政治というものだろう。
だが第1次世界大戦が勃発したことで、「日獨開戰の結果として、獨逸二十年の苦心なる根據地は一朝にして覆滅し」てしまう。以後、「巴里講和會議及華府會議等、前後三十數回の會議交渉を重ね」た結果、1921年1月、「日本が多大の犠牲を拂つ」てドイツから引き受けた「山東省の利權は、一擧手一投足をも勞せざる支那に對して還附せられたのである」。
ここで注目すべきが、三国干渉に加わる以前の段階で、既にドイツは中国全土の利権を標的に「支那全省悉く調査探究せし」めていたことだろう。
そう言えば今から20年ほど前だが、ミャンマー中部の大都市であるマンダレーを発ち中国との国境に東北部の要衝であるラシオ(漢字で「臘戍」と表記)まで歩いたことがある。マンダレーで調達したレンタカーで。運転手兼案内者と2人旅立った。途中、量り売りのガソリン・スタンドで給油していると、頑丈そうなランドクルーザーがやって来た。下りてきたのはドイツ人の男女に若いマッチョなミャンマー人。護衛兼運転手とのことだった。先方は「我われはドイツからやって来た地質学者だ」と自己紹介した後、「なぜ、こんな辺鄙な田舎を旅行しているのだ」と。「中国国境に近い一帯の華人の調査を」と応えた後、「ところで、あんた方こそ」と訊ねると、「この一帯の地下に埋蔵されているとされる豊富な地下資源を調査するためだ」。
彼らがどの程度の調査をしていたのか。日本人の門外漢に分かるわけがない。だが、「(ドイツは)既に碩學『リヒトホーヘン』を派して、廣く支那内地を踏破せしめ其の後、各部專門家に命じて、支那全省悉く調査探究せしむる所があつた」との上塚の指摘に倣うなら、ミャンマー東北部で出会ったドイツ人地質学者の狙いが浮かんでくる。性急に結果を求める日本人には考え及ばないような息の長い行動であることは、やはり間違いない。
ここで漸く上塚の筆は「揚子江に於ける日本」に及ぶことになった。
「英、佛、獨、露、米の諸國が、恫喝、奸計あらゆる秘術を盡し、着々其の地歩を占めつゝある間に、我日本帝國は如何」。これが、実にイカンのである。上塚は「憐れむべし、其の國策は常に動揺して定まる所なく、就中揚子江流域に對する經營に至りては、退嬰自卑、常に英國の反感を慮つて、敢えて求むる所がなかつた」と結論づける。
「英國」を米国に置き換えるなら、現在の日本外交と大差なさそうだ・・・トホホ!《QED》