――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(30)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
イギリスとロシアは「『スコツト、ムライヨフ』條約の成立」を以て、中国における互いの勢力圏を「英國は、萬里の長城以北に於て、鐵道敷設權又は鑛山採掘權を求めざる代りに、露國は揚子江流域に於いて同一の事を求めざる事」と定めた。
だが「露國南下の勢は、同國多年の國策である」。であればこそ「只一片の協約に拘束されて之を擲つの愚」を犯すわけがない。そこで「富裕なる佛の資本を誘ひ温和なる白耳義の假面を被」って、イギリスの勢力圏に手を突っ込み始めたのだ。
じつは「日清の役は一部頑迷の徒に一大痛棒を與へたると同時に、一部憂國の士を鞭撻して、其の胸に強烈なる進取的思想を注入した」ことから、張之洞を筆頭とする開明派官僚らが「軍事上、經濟上、支那に於ける鐵道幹線敷設の、一日も忽せざるべからざるを力説し」動き始めた。だが資金不足は否めない。そこに現れたのが「白耳義なる一小弱國の經濟的資本團體」であり、「其の背後に露佛の遠大な野心」が秘められていたのである。
虚々実々の駆け引きの末に、遂に「京漢鐵道の支配權を其の掌中に収め、北京と揚子江とを連絡する一大幹線の獲得に成功したる白耳義『シンジケート』」、つまりロシアとフランスは、次の段階として「支那を縱斷して北方の露領と南方の佛領と接合せんとする、露佛當初の計畫に基き、恰も漢口より廣東に至る一線の敷設權を得たる米國と競爭して、之を自己の手に奪はんとの野望を起すに至つた」わけだ。
ロシアの狙いは京漢鐵道を軸に西南内陸部にまで鉄道網を伸ばし、蒙古を経由して「露國の西比利亞鐵道と相合せしめ、南は成都より雲南に走り、佛國の滇越鐵道と相連りて、佛領印度に至らしめ、茲に北、西比利亞より南、佛領印度に至る、一大縱貫鐵道」の建設にあったわけだ。
次に上塚は「揚子江流域に於ける佛國」を論じている。
「顧れば、十八世紀の末葉、亞細亞の於ける英、露、兩國開展の跡を追ふて、佛國も亦漸く其の歩を、東洋の一角に進め、劈頭、英國と印度を爭ひて之に失敗するや、心機一轉、更に其の注意を印度支那の地帶に集注するに至つた」。かくして18世紀末に押さえた東京(ヴェトナム北部)を拠点に「支那の寶庫四川、雲南の地に突入し、揚子江の上游に於て英國と競ひ、經濟上、政治上に其の覇」を唱えることを目指した。
清仏戦争(1884年~85年)を経て結ばれた天津条約には、「佛國は、雲南、廣西、廣東の地方に於ける鑛山の開發に就ては優先權を有す、又安南に於て現存又は計畫中の鐵道は、兩者の協定に依り、支那領土内に延長するを得べし」と記されている。この条項に基づいて、フランスは「佛領東京の海港海防より起り、支那及印度支那の國境老開を經由して、雲南省城に至る鐵道」、つまり滇越鉄道の建設に取り掛かった。
1903年末に始まったものの難工事を極め、資金不足も重なり、1910年3月にやっと完成する。「雲南省より出づる物産は、本鐵道に依るか、紅河の流れを下るかにあらざれば、遠く海外に輸出する事は出來ない」。
雲南の経済開発が進まないうちは滇越鉄道の効果は期待できない。だが、「佛國の本鐵道經營の意義は〔中略〕政治的に雲南、廣東の方面に其の勢力を張らんとするの意圖より出でたるを知らば」、「佛國多年の宿望は、茲に達せられたりといひつべしである」。
次いで「揚子江流域に於ける米國」である。
「米國の對支政策は、終始一貫、親和主義を標榜して又變る所が無かつた」。だから日清戦争後、列強が「豺狼の欲を逞うするに際しても、米國は獨り冷然として之に預からず〔中略〕好んで敎育的、精神的方面の指導誘掖に努力して、他に何等求」めなかった。《QED》