――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(29)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
イギリスが「揚子江全域に亘る通商貿易の覇權を掌握し、同時に優越なる政治的地歩を確保」することになる滇緬鐵道は、早くから「英國識者の間に唱道せられ且研究せらたる所」であった。それというのも「世界に於ける、人口最も稠密なる二大國、即ち印度と支那とを鐵道に依り連絡せしめんとする雄圖」を描いていたからだ。
イギリスのビルマ侵略は、1824年から26年まで続いた「第一回緬甸戰爭」の結果、「アラカン」と「テナツセリム」を東インド会社が手に入れたことから本格化する。因みに現在のアウンサン・スーチー政権を悩ませるロヒンギャ問題の淵源は、ここにある。これを言い換えるなら、同問題を引き起こした張本人はイギリスなのだ。であればこそ、ロヒンギャ問題に対し民主・人権・人道・信教の自由などを掲げミャンマー政府を糾弾する資格は、イギリスにはない。断固としてない。
ビルマを殖民地化した結果、「英人は、緬甸と支那との間に、多額の邊境貿易存する事を發見し」、「四面山に閉ざされた雲南貿易を、英國の掌中に収」めることを狙った。1867年になって「『イラワデ河』が、其の上流八莫に至る迄、汽船の航行自由なる事發見」されるや、俄然、滇緬鉄道の建設が浮上してきた。
その後、長年に亘って現地調査を重ねた結果、イギリスは「起點を八莫に置き、『イラワデ』河を渡り、大盈河に沿ひて東進し、雲南省に入り、蠻允、干厓等を經て下關(大理府の南部)に達する」ルートを決定し、1914年1月、「時の駐支公使『ジォルダン』氏は、本線の權利を要求するに至つた」のである。
以上を総括して、「回顧すれば、一八六七年、初めて緬甸雲南鐵道の問題世上に喧傳せられてより、隱忍持久、實に五十年、幾度か探檢調査の部隊を送り、巨萬の資を費し、論難討議、遂に茲に決する迄の英人の努力は、蓋し大に敬意を拂ふの價値がある」と、いわば“敵ながらアッパレ”と評価する一方、返す刀で「兎角、熱し易く醒め易き日本人に取りては、正に項門の一針であると思ふ」と苦言を呈す(なお「項門」は「頂門」の誤か)。
どうやら「熱し易く醒め易き日本人」の性格を改めることが、国際社会で優位に振る舞う必要十分条件の1つであることは昔も今も変わらないらしい。いわば「熱し易く醒め易き日本人」でいる限り、国際社会でいいように煽て上げられ、適当にあしらわれ、最終的には泣きが入ることを覚悟しなければならない。であればこそ最近になって国連が煽り始めた「SDGs(持続可能な開発目標)」などという一種の戯言に、我が官民が踊らされている姿は危険極まりないと強く警告しておく。これからも、何度でも注意する心算だ。
やはり「熱し易く醒め易き日本人」を脱し、考究・熟慮のうえで大構想を生み出す日本人にならない限り、大国主導の国際政治に玩ばれて――些か、いや非常に古いが――植木等の「はいッ、ソレマ~デ~ヨ~ッ」となることは必定だろう。
「揚子江流域に於ける英國」に次いで取り上げるのは、「揚子江流域に於ける白耳義『シンヂゲート』」、つまり「露佛の別動隊」という問題である。
「其の淵源の古くして遠く、企圖亦雄大」なるイギリスの計画が完成した暁には、「揚子江茫々七十二萬哩の地帶は、只『アングロ、サクソン』の跳梁跋扈」を許すばかりになってしまう。だが、そう簡単にイギリスの野望、いわば中国が産み出す富をイギリス一国に独占させるわけにはいかないのである。列強が指を咥えて黙っているわけがない。
日清戦争後、中国側で北京と長江中流の要衝である漢口を結び、中国中央部を南北に貫く北京・漢口間の「京漢鐵道敷設の急務漸く論議せらるゝや、突如として覆面の怪坊主が、英國覇権の前に現れて來た。白耳義『シンヂゲート』即ち是れである」。《QED》