――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(27)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

【知道中国 2009回】                      二〇・一・初一

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(27)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

 「遂に新舊衝突の時は到來した。事は一八九八年九月、光緒帝が、〔中略〕改革意見を携へ、親しく頤和園に、西太后を訪ひ、其の裁允を仰ぎしに始まる」。

 光緒帝を迎えた西太后は「意見書を見るより、大いに激怒し、躁急輕佻、祖法を紊亂せんとする事の極めて誤謬なるを難詰したのである」。かくて改革は退けられてしまった。

 「嗚呼! 悲慘なる末路は光緒帝の運命の末路であつた。然れども亦帝の策せし改革の事業並に其の蹉跌が、やがて辛亥革命の一遠因をして、清朝三百年の社稷を覆すの基をなつた事を思ふ時に、吾等は不思議なる天の配劑に驚かざるを得ない」。

 かくて西太后が前面に躍り出て権力の凡てを掌握するや、「守舊派は再び其の勢力を擡頭して、『閉關自守』の聲は滿廷に漲るに至つた」。この動きに乗じて勢力を急拡大させたのが義和団である。山東省に起こった超人的能力を妄信する義和拳法を操る一団で、ここに官民双方の排外主義の流れが合流し、1988年末に「扶清滅洋」のスローガンを掲げた排外運動となり、「北支那一圓に廣がり、居住外人の生命財産は非常なる迫害を受くるに至つた」。

 これに対し日本・ロシア・イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリアの8カ国は連合軍を共同出兵し、「義和團の事變は一九〇一年九月に至つて漸く終結した」。だがロシアは秘密裡に勢力圏の拡大を図っていた。

 じつは義和団制圧の最中であるにもかかわらず、「露國は、其の滿洲に於ける鐵道、居留民、其の他の特殊權�を保護するを名として、急遽軍隊を滿洲の野に送つた」。そして義和団が制圧されたにもかかわらず、軍隊を撤退させることなく、「一、滿洲を事實上(名義は殘して)露國の保護國とする事/一、露國と境する支那の領土に於て露國の優先權を認める事」を容認することを清国に求めていたのだ。

 日英両国の反対に遭いロシアの野望は頓挫したが、軍隊を撤退することはなかった。1902年には日・英・米3国の猛抗議もあり、「露國は今後十八ケ月以内に軍隊を撤退すべき事を支那に締約した」ものの、守らなかった。そればかりか「明に日本の利�を無視して、其の魔手を鴨緑江の谷地に進め、以て日本の咽喉たる朝鮮を呑まんとしたのである」。

 以後、日露戦争に突き進むわけだが、日本の勝利は国際社会を動かしたことはもちろん、「就中、閉關自守、夜郎自大の迷夢未だ醒めざりし支那國民は、大日本帝國の捷利を見て、始めて其の重き瞼を開き、やがて周章狼狽して、大變革の道程に入つたのである」。

 「大變革」を前に、「西太后は考ふらく、〔中略〕滿洲人は自ら其の主唱者たらざる可からず、然らずんば澎湃たる此の風潮は滿洲政府を一掃し去るらんのみ、と」。いわば「大變革」が進んだら満洲王朝は吹っ飛んでしまうという強い危機意識を持った。一方、改革派は日本の勝利は「是れ立憲政治の賜なりと」考え、立憲体制を確立し、鉄道を敷設し、外資を導入し、科挙の制度を廃止し、新教育法を制定し、一気に近代化への道を突き進もうとした。かくて「�年學生は、欧羅巴、亞米利加、日本へと殺到して行つた」のである。

 だが、清朝体制下での一連の近代化運動は失敗に終わる。それというのも近代化のために必要なものが、中華帝国としての清朝を根幹で支えている儒教秩序の安定のためのカラクリに完全に抵触していたからだ。それはまた1989年春の天安門広場に集まった若者たちの要求――たとえ、それが正しかろうと――が、�小平率いる共産党秩序安定のためのカラクリに真っ向から反対していたゆえに失敗に終わったことと酷似しているだろう。

 さて、ここで問題は清末の混乱を前にした「列國の對支政策」である。それまで「露骨に支那の尊嚴を冒?せる列國」は方針転換し、「經濟的援助」へと突き進む。《QED》

(謹賀新年。本年もご笑覧の程を願います。尚、昨日の日付「一九・十二・丗一」に訂正)


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