――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(19)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

【知道中国 2001回】                      一九・十二・仲七

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(19)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

 峨眉山を下った上塚は雲南省に入るため、四川省の東南端に位置する叙州に向かった。

叙州では、同地の知事を表敬訪問の後、「漢口駐屯軍參謀板垣征四郎君の紹介状を持つて、衛戍司令官胡若愚君を訪ふ」。それというのも「叙州より雲南省城に至る行程二十有五日、一路惟山嶽重疊の間を通過し、中にも老雅灘、荳沙關、雲臺山の如き、匪賊險に據り、緑林の徒三塞を結び、以て行人を掠むるの噂あり、依て胡司令により各地への執照と若干の護兵を乞はんが爲である」。つまり危険極まりない旅の護衛を依頼したというわけだ。

ところで陸軍支那通の代表格であり、中国公使館付武官補佐官、関東軍高級参謀、奉天特務機関長、関東軍参謀長副長、関東軍参謀長、第5師団長、陸軍大臣、支那派遣軍総参謀長、朝鮮軍司令官など赫々たる軍歴の末に極東軍事裁判でA級戦犯として死刑に処せられた板垣は、じつは大尉時代に駐在武官として昆明の領事館に勤務している。おそらく、そんな関係から人脈的に胡若愚に繋がっていたと思われる。

「胡司令は快く承諾してくれた」というから、おそらく板垣の紹介状が効力を発揮したのだろう。「叙州より雲南省城に至る行程二十有五日」の前半、「即ち昭通に至る約十二日行程は胡司令の手兵が護衞し、各地の頭領に向つても夫れぞれ紹介状が發送せらるゝ事となつた」。

「叙州は岷江と金沙江の合流點に在り」、「人口約五萬、四川雲南の交通路に當り、〔中略〕商業殷賑である」。そこでは「佛、英、米の宣�師が盛んに活躍して居る。就中佛國人は其の優なるものなり。東門外には佛國人經營の天主堂、醫院並學校あり、學校は大、中、小學より女學校に至る、米人は東門内に福音堂、醫院並學校(中學、小學)を經營せり。英國人は魯家園に基督堂を有す」。加えて増水期のみ限定で、フランス人経営の小型船舶が重慶との間を運航している。

漢字1文字で表現すれば、四川省は「蜀」、雲南省は「?」。いよいよ叙州を発ち、雲南省の省都である昆明を指して蜀?路を進むことになった。

「雲南の地は、西蔵青海の高原に接し、昆崙大山系の餘脈は、廣袤十四萬六千方里の全省に跨り、大概、海抜四千呎乃至二萬呎の高標を保つて居る」。そこは「ベトナムの中央高原からインド北東部にかけて広がり、東南アジア大陸部の五カ国(ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ビルマ)と中国の四省(雲南、貴州、江西、四川)を含む広大な丘陵地帯」(『ゾミア 脱国家の世界史』ジェームズ・C・スコット みすず書房 2013年)の一部であり、東南アジア大陸部の山塊に繋がっている。標高は平均して三〇〇メートル以上で、面積は二五〇平方キロに及ぶ。

現在では一帯一路の熱い舞台となっている同地では、上塚の時代には南方から中国に食指を伸ばそうとする欧米列強、ことに英仏両国にとっての密やかなる決戦場であった。いま中国から南方に向かう侵略のベクトルは、かつては南方から中国に向かっていたのである。上塚の時代から100年余。時代の激変を痛感せざるを得ない。いや、痛感すべきだ。

さて蜀?路だ。「直行二十四驛程、一千七百支里、古の所謂蠻瘴の地にして、山嶽重疊、波濤の如く起伏し、一道の山徑、纔に其の間を通ず、即ち、或いは山腹を縫い、或いは山頂を連ね、忽ちにちて谿谷に下り、須臾にして白雲を攀づ」。かつて李白は筆を擲って「行路難、行路難、?北の路人間の至る所に非ず」と嘆じ、「仏蘭西の旅行隊、嘗て?北の路を旅行して、太息して曰く、二十二日の旅行に二十四の山脈を横ぎらざる可からず、と」。宿は劣悪で、従者は「無智、無作法ではあるが、可憐の者」とはいえ例外なく「鴉片の?者」。そのうえ山々に点在する山塞には「緑林の徒が立籠つて行人を掠める」から、最悪。《QED》


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