――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(15)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
やがて重慶に到着するが、やはり四川でも列強諸国が商権を巡って争いを展開していた。
古くから「四川の大平野は所謂千里の沃野天府の地たるに拘らず、此の障壁に鎖されて外省と遠ざかる事茲に數千年、あたら濳龍雲を得ずして最近に至つたのである」。「此の障壁」が、「殊に水路極めて狹隘、盤巖江心に點在し航行の難」で知られた三峡である。
1888年、「英國人『アーチボールド、リツトル』氏」が三峡の遡行に最初に成功した。「其後日清戰爭の結果、四川省重慶府が新たに開港せらるゝや、『リツトル』氏は此の機逸す可からずとなし、利川號と稱する小蒸汽船を造り、一八九八年二月十四日に宜昌を出港し、三月九日重慶に到着した。之れ實に三峽汽船航行の嚆矢である」。「是と同時に英國政府は、支那内河航路に小砲艦を遊弋せしめんと欲し、砲艦三隻を建造した」。
かくして「三峽の航行必ずしも危險ならざる事中外に認めらるゝや、列國爭つて之が溯航を試むるに至つた」のである。
「佛國砲艦『オーリー』號」が1901年10月、「英艦『ウ井ジヨン』號」が1905年4月、「獨逸船にして通峽の先鞭を着けたるは軍艦『フアテルランド』號」で1907年4月に三峡を遡行して重慶入りしている。
これに対し「我が日本船が始めて三峡に其の勇姿を現したのは」英国船の初遡行成功から13年後の1911年5月のこと。最初の軍艦が伏見であり、これに次いだのが1912年10月の軍艦鳥羽であった。
じつは大正9(1920)年6月、上塚は友人から「三峽の航運を開始し、無限の寶庫四川開發に渾身の努力を捧げ」たいとの相談を受ける。その友人は天華洋行を創業し、上海に渡り努力の末に天華二隻の新造船を手に三峡に挑み、遂に大正11年4月に「火と燃ゆる我が旭日旗は〔中略〕三峽の間に翻るに至つた」。
順調に事業が進展すると思いきや、「幾多の事故は、次から次へと起つて來た。民船との衝突、觸礁、排日團の妨害、此等のものは當然有り得べき禍として忍ぶべきも、日本同業者から、異端者として嘲笑せらるゝはまだしも、あらゆる手段を以て迫害せらるゝに居たつては、唯々天を仰いで長太息するのみであつた」という。
友人達は「日本同業者」から「火攻めの困苦を嘗め」させられ、「努力の結晶も、遂に一年ならずして、人の手に渡すの止む無きに至つた事は、返へすかへすも遺憾の極みである」と。まあ、いつの時代にもセコい振る舞いに終始する「日本同業者」がいるものらしい。
重慶でも調査に奔走する上塚だが、「一日の調査を終へると、宿の中庭に椅子を持ち出して、よく語りよく談じた」。その際、「空に燦く星を數へ、その吹く風に涼を容れ乍ら、交わされた漫談」を記憶しておきたい。
たとえば「福音堂牧師の商賣」である。
「民國では、基督�の會堂を、耶蘇堂、福音堂、天主堂」の別で呼んでいる。「耶蘇堂は英人、福音堂は米人、而して天主堂は佛人の經營になるものである」。ここで興味深いのが「米人經營の福音堂」だ。彼らは「支那各地の自國�會と連絡を取り」、内緒で為替商売をしている。在留日本人教員などは、いいカモだったらしい。加えて本国から多くの日用品を取り寄せているが、「税關では、此等のものを�化事業用品として、極めて寛大に取扱つて居る」。この点を悪用し、宣教師らは「支那商人と結託して福音堂用品の名の下に、盛んに各種の雜貨を輸入し、之を支那商人に賣付けて居る。支那の福音堂信者は多く此の類である、と」。十字架を前に、右手に聖書で左手にソロバンということか。
蛇の道はヘビで、信仰の道も商売・・・やはり、こうでなければ生き抜けない。《QED》