――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(13)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
上塚は四川、雲南、貴州、湖南、湖北、河南、陝西、甘粛、江西、安徽などから工業資源を集める「工業都市としての漢口」を調査する。詳細なデータは割愛するが、綿布、綿糸・紡績、製糸、毛織物、大豆、精毛、製革、蛋白蛋黄、製茶、澄油などの部門におけるドイツの躍進振りが断然目立つ。
その後の日中戦争期からはじまって現在に至るまで、やはり中国とドイツとは“親和性”に富んでいるのだ。であればこそ、対外開放以後の両国関係は極めて長い歴史に発していることを、忘れてはならない。
漢口の後、上塚は長江を遡って四川への旅に。
最初に足跡を印したのは、「漢口を去る上流二百四十哩一八九六年帝國政府の要求により開港」することになった沙市である。同地における「吾が居留民約五十、帝國領事館、郵便局、日清汽船、三菱、日本綿花、武林等の官衙商館あり。何れも支那町にありて支那家屋の借家住居なり」。日本の專管居留地の立地条件も悪く、貿易関連施設も整っていない。
この姿に接した上塚は、「惟ふに專管居留地を定むるの意は、茲に帝國の臣民を導きて安住の地を得さしめると共に、我が國の文化的並經濟力を深く支那内地に及ぼすに存す。是れが爲めには市街の經營を爲ささるべからず」。だから「市區を定め江岸を築く」わけであり、その姿を「廣く是を内地に紹介し眞面目なる識者並に商工業者を誘導し來る」べきだ。それにもかかわらず、「當局は敢えて力を茲に致さず、寶玉の地を徒に荊棘の内に放置しつゝある」。その理由が分からない、と首を傾げる。
かくして上塚は日本政府当局者の無定見・無作為・無気力・無目的を憤る。
「沙市のみならず余輩は揚子江沿岸の到る處に沙市類似の日本居留地を見たり。他の列強が草原澤地を開き道路を建設し得岸を築き、樹を植ゑ水道を引き、以て壮麗なる街區を作り支那人其他の外人を茲に導き、幾何ならずして殷賑なる自己中心の商區を構成し、朝には自動車を驅りて業に向ひ、夕には輕車を走らせて悠遊するに比し、吾が帝國居留地の何ぞ貧弱なる。街區整はず、道路惡しく、泥濘時に膝を没せんとするは未だしも、甚だしきは當地に見るが如く一個の建物すらなく徒らに荊棘に間に放棄」したままだ。かくして「吾人は痛切に吾が當局の志豆の如きを感せずんばあらざるなり」となる。
たしかに上塚の憂憤も判らないわけではない。だが、先に見た田川大吉郎の台湾経営構想――未開の蛮地である台湾を、日本の力で世界に誇れる文明先進の地に押し上げてやる――を論じた際に指摘しておいたが、殖民地や居留地の経営に関して西欧列強が共通して熟知していたはずのノーハウを、日本は残念ながら持ち合わせてはいなかった。
なぜ西欧列強は殖民地獲得に血眼になるのか。なぜ強引に居留地を求め、自国のための貿易拠点に大改造するのか――これらの点に考えを及ばせないままに、日本は西欧列強に倣って朝鮮半島や台湾にヒトとカネを投入し、中国大陸各地に居留地を求めてみた。だが殖民地経営に疎いがゆえに扱い兼ねてしまった。かくて朝鮮半島には「内鮮一如」で、台湾には「一視同仁」という考えで対した。一方の居留地は手に入れたものの放置したまま。
殖民地とは資源を搾取・強奪するのであり、宗主国が“身銭を切って”まで開発に乗り出すものではない。富の収奪基地であればこそ、居留地は手に入れたら直ちに改造に取り掛かるものであり、いつまでも放置しておくべきものではない――これを常識とする西欧列強からするなら、日本のやり口は理解できなかった。かくて「内鮮一如」「一視同仁」という日本が示す善意の“裏側”を、彼らは勘繰ったに違いない。ここに、“最後発帝国主義国家”と呼ばれる日本のその後の悲劇の芽が胚胎していたように思うのだが。《QED》