――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(8)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
「一人の挑夫を督しながら」歩を進める「天主�の牧師」を目にして上塚は、「衣食住から風俗習慣に至るまで其總てを異にして居る歐洲人の事である。如何に信仰の爲天職の爲とは云へ、此の山奥では想像以上の困難もあらう、危険も伴ふであらう。然し乍ら彼等の面には何の不安不滿の影はない。いつも嬉々として仕事にいそしんで居る。嗚呼愛の力は強い、愛は不偏である、愛に國境は無い。されば堅くなな、無智な、半開の人々も、愛の爲めには素直に跪いて、首を垂れ腰をかゞめて其の�を請うて居るでは無いか」。
「天主�の牧師」に「愛の力」を感ずる上塚は「彼等こそ神の蔭に隱れた狼であると云ふ」考えがあることを認めながらも、生活環境の劣悪な「遠い遠い異國の山奥」で布教活動を続け、やがては「無名の墓の下で心安らかに眠」ることになるだろう「彼等をばどうして一概に醜き野心の手先だとけなして仕舞ふ事が出來よう」と疑問を投げかける。さらに「私は布�の事が人間唯一の犠牲心であると云ふ者で無い」と断った上で、「然し此の事にすら我日本人の努力が非常に微弱である事を嘆ずる者である」と記す。
たしかに「天主�の牧師」であれ、「愛の力」がなければ「遠い遠い異國の山奥」で長期の生活を送れないだろう。だが「愛の力」だけで「遠い遠い異國の山奥」で「無名の墓の下で心安らかに眠」れるとも思えない。誤解を恐れずに言うならば、敢えて「醜き野心の手先」になることを引き受けるからこそ、「遠い遠い異國の山奥」での布教活動の末に「無名の墓の下で心安らかに眠」る覚悟を持てるのではないのか。
おそらく「醜き野心の手先」を覚悟してこそ「遠い遠い異國の山奥」で「愛の力」を発揮できるのだろう。「愛の力」を秘めた「醜き野心の手先」というのが、おそらくは「天主�の牧師」の偽らざる姿であったと思う。
上塚の「苦しい歩行」の旅は続く。
日本では宿に着くと必ずや「亭主や女中や、風呂や、晩餐やらが微笑み乍ら歡迎する」。かくて英気を養い、「翌日は新しい元氣と新しい希望を抱いて飛び起きる事が出來る」。だが「支那の旅行ではさうは行かぬ」。「樂しみとか、愉快とか云ふ言葉は、如何なる宿に行つても、置き忘れて居る」。部屋は暗く狭く、そのうえ黴臭い。土間に直接置かれた「寝臺は二尺高さ計りの臺の上に板切を載せた」だけ。客が「寝具の始末から部屋の掃除迄」をする。「女中代りには生れて此の方未だ嘗て體を拭いた事の無いと云ふ程、汚じみた男の茶房が居る」。客の世話をするのが「茶房」である。
「殊に食ふものやよごれて、きたない、油だらけの豚料理と來ては、如何に饑餓と云ふハンデイキヤツプがあつても咽喉を通る事の少ないのは云ふを待たない」。排泄方面については、「便所は垂れ流し、ひどいのになると、臺所の一隅を以て兼さしたものがある」。
さて、そこで「臺所の一隅を以て兼さしたもの」だが、まさかそれはないだろうと思っていた。ところが数年前、シンガポールの旧チャイナタウンを探訪した際、シンガポール開発当時の華僑の住居をリニューアルした博物館に入って驚いた。竈の隣の、しかも仕切りの無い所に便所があったからだ。熱帯の高温多湿、そのうえ薄暗く狭い住居の台所である。さぞやアンモニア臭が漂ったことだろうに。
かくて上塚は「全く支那旅行の宿は樂しみでは無く苦痛である。吾等は南京蟲と戰ふ計りで無く、あらゆる不潔、あらゆる不便と戰はねばならぬ」と。
ところで話は変わるが、明治初期に東北地方を旅したイザベラ・バードは『日本奥地紀行』(平凡社 2000年)に、日本人の清潔で質素な生活ぶりに感嘆の声を上げる一方で、旅の先々で泊まった宿で蚤の大群に襲われ閉口したと記している。南京蟲VS蚤・・・《QED》